見出し画像

家族のあり方、わたしのあり方

わたしの家は父子家庭である。

中学2年生の秋、両親が離婚した。小学生だった頃くらいから、母は時々、父を詰っていた。中学2年生の春に引っ越してからは、母は料理を作らなくなった。だからわたしはいつかこうなることを覚悟していた。

母は自らの故郷の町に移り住んだ。

父と母の取り決めで、わたしの親権は父のものになった。母とわたしは会うことを許されなかった。それでも内緒で母とわたしは会っていた。あるときはマンションの駐車場で、あるときは近所のファミリーレストランで、母方の祖父母がわたしの地元まで母を連れてきて、わたしと母は内緒の相瀬を重ねた。

父ががんを患い余命宣告を受けたのは、高校受験の頃、15歳の春だった。
それからほどなく父の実家と大病院のある都市に住まいを移し、現在は母方祖母と叔母と4人で暮らしている。父は奇跡的に助かった。転移や再発のために父のからだの臓器はいくつか欠けていたりなかったりするし抗がん剤の後遺症も残ったけれど、今父のからだにがんはない。

父の態度が軟化したのもその頃だった。高校生になってから、わたしと母は会うことを少しずつ許された。父の許可が降り、母は住んでいた町からはるばる、わたしの高校の入学式に参列したのだ。その日、両親が離婚してから初めて、父と母とわたしは3人で食事をとった。入学式の前に、3人で食べたなか卯の親子丼の味が今でも忘れられない。

そして、わたしの入学式、父兄席の片隅で、父と母が並んで座っていて、憧れの新しいセーラー服に身を包むわたしを見つめていた。


母は同じ年の12月に脳梗塞になった。後遺症こそ残らなかったものの、再発の危険のために一生薬が必要になり、母の実家のそばに住まいを移した。大きな病院も、わたしの暮らす家もその都市にあった。

年が明けてすぐ、わたしは精神を悪くして学校に行けなくなり、精神科に通うようになった。

わたしは母の家に泊まりに行くようにもなった。母の作る料理の味を噛み締められるようになった。
父ががんの再発で入院したときは、母の家に身を寄せた。
皮肉なものだと思う。父と母とわたしとの距離を縮めたものは、父の病気で、母の病気で、わたしの病気だった。

わたしは精神の病気の影響もあり、人より高校の卒業に時間がかかった。1年遅れの卒業式にも、母は参列してくれた。
卒業式、父兄席の片隅で、父と母が並んで座っていて、人よりもくたびれたセーラー服に身を包むわたしを見つめていた。

卒業式のあと、3人でお寿司屋さんに入って、1つのテーブルを囲んでお寿司を食べた。入学式以来4年ぶりだった。

わたしの中にある母に対する思いも、父に対する思いも、いいものばかりではない。時折、考えては苦しくなる。

それでもきっとこの形が最善だったのだと、今、21歳になったわたしは思う。

わたしの苦しみは、世間一般にはいらないものだったのかもしれない。両親が離婚してからずっと、母になろうとは思えないままだ。

永遠なんてない。絶対なんてない。時間が、思いの変化が、解決してくれることがある。

それを教えてくれたのは、母で、父でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?