自分を巡る言葉たち


振り返れば小さい頃から、文章を読むことも書くことも好きだったように思う。

国語の教科書が配られるや否や全文に目を通していた。色んな場面で書く作文はいつも褒められた。小学4年生の頃には全校集会で生徒たちおよそ500人の前で作文を発表したこともある。小学校6年生の教科書に載っていた、ヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』なんかはわたしに多大なる衝撃を残した。今のわたしが詩や短歌を読むようになったのは中学校の教科書で出会った百人一首と石垣りんの詩がきっかけだった。自分の読みたい作風の小説は自分で書くようになった。自分の感情や記憶を残しておくためにブログやTwitterなどのSNSには早くから触れていた。気に入った歌詞の曲は歌詞を書き写して眺めていた。Twitterで出会った方が現代詩や現代短歌の書き手だったので現代詩や現代短歌の世界に没入するようになった。

今でも文章を読むことが好きだし、書くことも好きだ。今しか書けない文章があることがわかってから、自分だけでなく人々の書く文章により価値を感じるようになった。

好きな歌手の唄う言葉にどれだけ救われただろう、好きな小説の世界にどれだけ楽しませていただいただろう、好きな詩や短歌にどれだけ感動しただろう、文章を書くことでどれだけ助けられただろう、

自分が構成されているのは、紛れもなく文章が、言葉があるからだと思う。

でも文章の中に、素敵な、心を打つ文章だけがある訳ではないでしょう。


素敵な文章だけ世の中にあれば幸せだと思う。

実際、心に残っている文章は、素敵なものだけではない。

心を刺してくる文章には、鋭利で、人を傷つけるためのものがある。
はたまた、事実を告げるだけの文章だって、残酷だったりする。

そういう文章がわたしの自尊心を、少ない自信を、奪っていったし、そういう文が今の、捻くれたわたしを作っている。
かなしい、と、思う。でも、受け入れなければいけない事実だと思う。
過去には、もう、戻れない。


わたしは、問いたいのです、言葉の意義を。

言葉は道具です、たくさんの使いようがあるんです、人を感動させることもできるし、人を豊かにすることもできるし、楽しませることもできるし、人を傷つけることもできるんです、殺すこともできるんです、

だって、刃物は、便利だけれど、人を傷つけることも、自分を傷つけることもできるでしょう。

言葉を使う、人である以上は、言葉を残す、人である以上は、その便利な道具で、人を傷つけたくない。ましてや、人を殺したくない。

言葉というものが大好きだからこそ、その感情だけは、その言葉だけは、ここに綴って残して、誓っておきたい。


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