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醒メテ猶ヲ彷徨フ海(小説集)

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ブログ「醒メテ猶ヲ彷徨フ海」から小説だけ引っ越してきました。 http://mia.hateblo.jp/
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記事一覧

〔小説〕 跋扈

〔小説〕 跋扈

中学校において人気のある女子とは、明るくてスポーティーで、元気がよくてちょっといじわるでよく笑う、そういう女の子たちだ。そんなふうにはどうしたってなれない。おれは劣等感のかたまりだった、あの頃。

劣等感にさいなまれるあまり、対人恐怖症になってしまった。人と目を合わせるのが恐い。頬や指先が痙攣してしまう。まばたきがとまらなくなる。

結局まともに会話らしい会話ができる友達は二人か三人。その頃の名残

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梨園

梨園

photo by 茶畑 (C) 諸石 信 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示4.0 国際)

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夢。

おれはまだ高崎に棲んでいて、そこで仕事をしている。多くの故郷の友人がそうであるように。故郷は湯船のように心地よく、そこに身を浸していれば外の世界はただ旅をするためだけの土地となる。母親のつくる毎朝毎晩の食事を当たり前のように食べ、毎日そこへ帰っていく。

おれの職場は榛名町の果

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〔小説〕白濁(六)

〔小説〕白濁(六)

「煙草、吸ってもいいですよ」
猫背に声をかける。坂井は初めて気がついたように灰皿に視線を落とす。白シャツの胸ポケットから、押し潰れた緑色のマルボロの箱がのぞいている。
「あ、いや、ありがとう」
器用に一本だけ飛び出させて咥え、100円ライターで火をつけた。
「吸わないんですか? ええっと」
「田崎です」
「タザキさん」
思い出せなかったことに動揺するでもなく言う。
「人の名前、覚えるの苦手で」

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〔小説〕白濁(五)

〔小説〕白濁(五)

店の外で坂井は煙草を吸っていた。
「あれ、本当に来たんですね」
としれっと言う。ちょっと傷ついた。
「それじゃ、行きますか」
律儀に携帯灰皿でもみ消す。坂井の長い指の中で、携帯灰皿はコンパクトケースみたいに見えた。飄々と二軒先の焼き鳥屋の暖簾をくぐる。
「こんな近所で呑んでちゃ、みんなに気づかれるんじゃないですか?」
「いや、誰も出てこないでしょう」
カウンター席に腰掛け、坂井はハイボールを注文し

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〔小説〕白濁(四)

〔小説〕白濁(四)

「いや、たまたま。人が足らなくて」
「えー、でもすごかったですよう!」
松田の甲高い声がうるさい。坂井はまんざらでもないように、薄く微笑んでいる。
「坂井さんて、授業が無いとき、いつも文キャン(文学部キャンパス)のスロープのとこに座ってますよね?」
財津が言った。
「みんなが説法聞くみたいに取り囲んでるから、気になってたんです。ただ者じゃないなと思ってたけど、役者だったんですね。あれ、何の話をして

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〔小説〕白濁(三)

〔小説〕白濁(三)

石黒先生の演習は、時間割では一番遅い7限に組まれている。19時40分に始まり、21時10分に終わる。シラバスに載っている年間の講義予定には書かれていないけれど、5月と12月にこっそりと授業時間を使って懇親会を開くのが恒例になっているらしい。7限は飲みに繰り出すのにちょうどいい時間だ。

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〔小説〕白濁(二)

〔小説〕白濁(二)

早稲田大学第二文学部に学科は無い。その代わり、学科よりももっとゆるい「専修」というまとまりがある。最初に選んだ「基礎演習」の授業が自分の所属する専修となる。自分の所属する専修で必要な単位数を取得さえすれば卒業できるが、所属以外の演習を取っても構わない。

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〔小説〕白濁(一)

〔小説〕白濁(一)

最後の待ち合わせ場所に坂井が指定してきたカフェは、近所だけれど一度も行ったことのないチェーン店だった。たぶんこれから先も行くことはない。その店を選んでくれたことに少し感謝する。遅れて店に入る。不機嫌な顔でiPhoneを見ている。待ち合わせのときはいつもそうだった。最初はどうしたって機嫌が悪いのだ。

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〔小説〕 猫 (二)

〔小説〕 猫 (二)

飼い主を拾ったのは冬の雨の夜だった。傘もささずにずぶ濡れで歩いていたから、手をひいて部屋に連れ込んだ。

ぐしょぐしょに濡れて重たくなった背広を脱がせ、鴨居に掛ける。風呂をたてて布団を敷いた。湯からあがった飼い主にバスタオルを投げる。先に布団にもぐりこんで、丸くなる。

部屋は踏切に近く、夜半過ぎまで遮断機の煩く鳴る音がする。飼い主はなかなか寝付けないようだった。何度も寝返りを打つ。それでもやがて

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〔小説〕定食屋

〔小説〕定食屋

その定食屋は大隈講堂のそば、脇道にある古びたビルの二階にあった。暖簾をくぐるとカウンター席のみで、四人も入れば満席になってしまう。神棚のような棚にブラウン管のテレビがあって、決まって夕方のニュースが流れていた。講義が六限で終わる日は、いつもそこで夕飯を食べた。鯖の味噌煮定食が500円。もう長いこと値段は変えていないらしい。暖簾を誰かがくぐる気配を察すると、奥からおかみさんがくぐり戸を抜けて顔をだす

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〔小説〕 鏡台

〔小説〕 鏡台

母の鏡台はとても古い。どこで手に入れたのか聞いたことはない。最初の結婚の時の嫁入り道具だったのかもしれない(母はバツイチだった)。観音開きの三面鏡、椅子も組み込まれていたが、母がそこで化粧をしている姿を見たことはない。

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〔小説〕 ざまみ(一)

〔小説〕 ざまみ(一)

待ち合わせの辺鄙な港で、あたしと同じように大きな荷物を抱えて立っていた人を、初めは留年を続けたうらぶれた学生かと思ったのだ。よく日に焼けた腕が薄汚れたティーシャツからのびている。無精ひげに長い髪。歳を訊いたら、三十九だとかいうから驚いた。

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〔小説〕じゃらん、じゃらん。(三)

〔小説〕じゃらん、じゃらん。(三)

二人で並んで、若宮大路を海に向かって歩いた。もう秋の風が吹き始めているのに、地元のおじさまたちは皆、ハーフパンツにビーチサンダルだ。ジーンズ姿に革靴で、色白の崇史は、見るからに他所者だった。

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〔小説〕じゃらん、じゃらん。(二)

〔小説〕じゃらん、じゃらん。(二)

最初に引っ越すつもりだったのは高円寺あたりだった。小さな古びたアパートがごみごみとある感じと、中央線が高架を、まるで海の上を渡るように走るところに憧れていたのだ。そしていつか、今の仕事を辞めたなら、ほんものの海の近くに棲もうと思っていた。でもそれは、ずっと先のことであるはずだった。

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