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その花は「今」を教えてくれた

花の命は短い。今、目の前で綺麗に咲いていたとしてもすぐに枯れてしまう。私にはこれまでそんな印象しかなく、花を買ったりすることは何だか少し贅沢な気がしていた。一方、花を好きだという人に対して「素敵だな」と憧れるような気持ちがある。枯れてしまうまでの短い命という名の「今」を楽しむものが花なら、その何倍もの時間を過ごすのが人間と言える。

「今」の積み重ねを続けていくことこそが人生となるのだろう。




少し前から部屋に飾っていた生花が気付くと茶色く変色していた。スプレーバラという種類の小さなピンク色のバラだ。枯れてきているというのに、気持ちに余裕がなくて気付くことができなかった。一週間もすれば生花はこうなるものなのかもしれないが、少し視界を移せば見えてくる花さえも忘れてしまっていたことが少しショックだった。これは母が私のためにと買ってきてくれた花だった。それなのに枯らしてしまったことを悔やんだ。

私は窓際へと歩みを進めた。よく見ると一緒に飾っていたカスミソウまでは腐食が進んでいない。花瓶から枯れてしまったスプレーバラをすっと抜き出して他の傷んでしまった部分を切った。新しい水を入れて元の場所に戻す。メインの色を失ってしまい、少し寂しくなった花瓶。そこには思った以上に元気なカスミソウがあった。まだまだ立派な花だ。小ぶりの白い花がいくつも集まり、精一杯咲き誇っている。

枯れてしまったことをいつまでも悔やんだところで、スプレーバラはもう咲きはしない。それよりも咲いているカスミソウを長く楽しむことに意識を向けた方がいいのではと考えた。



後悔先に立たず。だけどいつまでも引きずっていては前に進むことができなくなる。過去から今、未来と時は流れていく。今の時点からの後悔は過去にあるが、未来からの後悔は今にある。現在の私ができることは未来の後悔を少なくすることなのかもしれない。

目の前のカスミソウの花をそっと撫でた。






そんなことを思った次の日、外出から帰ると花瓶には黄色いガーベラと赤いスプレーカーネーションが飾られていた。この前のカスミソウに彩りを添えている。よくわからないのは菜の花が一緒に飾られている点だ。一本だけやたらと長く、天に向かって真っすぐに伸びている。茎がしゃきっとしているのでとても丈夫そうだ。台所にいる母に声をかける。

「お母さん、お花どうしたの?」
「もう枯れるころだから足しておいたのよ。やっぱりお花があると気持ちが変わるでしょう?」

母はいたずらっぽく笑う。

「ありがとう」
「どういたしまして」

そして私はずっと気になっていたことを聞いた。

「あのさ…あの菜の花は一体…?」
「さあ…?」

そう言ってとぼけるので私はついふふっと笑ってしまった。つられてなのか母も笑い始める。こういう気が抜ける瞬間がこの頃あまりなかったような気がしてくる。やっぱりちょっと疲れていたのだと思った。


母は生花を部屋に飾ることが昔から大好きだ。あいにく私はそういった習慣がないので、子供の頃は玄関に飾られた花が変わっても気付かないことがあった。高いところにあって視点に入っていなかったからだ。さすがに良い香りがするタイプ、例えば母のお気に入りであるフリージアなどには気付いたが、あまり身近に感じるものではなかった。

そのはずだったのに私は昨日くらいから花を眺める機会が気付けば多くなっていた。元々ガーベラが好きだということもあるが、黄色と緑と赤というビタミンカラーは眺めていると元気が出るものだと感じた。本調子ではない今、こういった時間が少しでもあると気が休まる。



私は残ったカスミソウを枯れるまで寂しく愛でていくことが「今を楽しむこと」だと勘違いしていたのだと気付いた。「今」というのはつまり、現在この時点からいくらでも変えていけるということだ。気持ちに余裕がなくなっている時には視界が狭まってしまう。だから窓際にあった綺麗な花にも目が行くことがなかったのだろう。

そうだ、この花が枯れたらまた他の花を飾ろう。できることならあの花瓶にあるような色鮮やかなものがいい。そして未来への後悔をなくすのではなく、少しずつでも「今」の楽しみを集めていこう。

母のくれた花はいろんなことを教えてくれた。

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