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多重「人格」のこと(4)

※性的搾取、性的いやがらせの記述があります。

セックスで人と繋がるのが、一番簡単だった。裸で体を任せればいい。彼らの欲しいものはわかる。それを利用して、挑発すればいいだけ。

この件と向き合うのは、とてもしんどい。性の特攻という趣のこの人格を、『マグダレーナさん』と呼ぶ事にする。

『マグダレーナさん』は、ある過去の体験をヒントにしていたのだと思う。私が9歳くらいの時、父親はふざけて部屋の角に追い詰めた。遊んでふざけているようだったが、急に暴力的になる父親が笑顔で追ってくるので、私の脳内で恐怖からおかしなケミカルが分泌されたのか、私も笑っていた。たが、決して楽しい訳ではなかった。父親は、笑いながら、胸をつついた。理解出来ないながら違和感を覚え驚いた。笑みを浮かべて高揚した顔の父は、また胸をつついた。混乱した。今度は、性器に手を伸ばし、「撫でる」と「つつく」の間だった。何度かその行為が続き、その間混乱した私の顔は、笑顔の形で固まっていたと記憶している。何も理解出来ないままその一件は、「私の性器や胸を触ると、人は興奮して喜ぶのだ」と、深層心理にインプットされたのだと、後追いで思った。

(何年もしてから母親にその話をすると、「きっと、可愛いと思ったんでしょ。しょうがないわね。」と言った。次に返す言葉は出てこなかった。)

『マグダレーナさん』は、15歳から年上の男性達と寝まくった。裸の体を捧げれば、簡単に男はこちらを向く。その中の一人があの暴力の家から連れて逃げてくれる事を期待した。冷静な頭なら、15歳と躊躇なく寝る男などクズで、救世主になる訳がない、と2秒でわかる。だが、その時の私は、必死だった。持てるただ一つの資産、生身の体で、何とか地獄から違う世界へ抜け出したかった。なりふり構わず。

結局、性奉仕の努力は実らず、高校卒業まで両親の家に住んだ。

家族からレイプされた事がないのは不幸中の幸いだった。しかし、私の全裸の写真(股間まで丸見え)を何十枚も撮影しアルバムに収めている父親や、それを見ても「私は止めろと言ったのよ。」などとニヤニヤする母親は常軌を逸しているし、中学生まで脱衣所で裸を見せないと怒る父親、というのも、個人的には異常にうつる。酔っ払って至近距離で、「肛門や男性器を舐めさせる」などと言ってくるのは、嫌悪感しか抱けない。

少しでも愛されるチャンスが目の前にぶら下がっていると、いわゆる性サービスで取り込もうとする癖は、最近まで抜けなかった。中には、私を好きになる人も何人かいて、付き合ったり同棲したりという事も、何度かあった。付き合いはじめは性に奔放な女だったのに、急に父親と相手を同一化してセックスに嫌悪感を抱き、出来なくなってしまったりした。相手はただ混乱するのみで、この性質は、パートナーシップをとても難しくしていた。

逆に、とても好きになった相手がアセクシャルだった時は、自分の身体を求められない事が不安でパニックになり、鬱状態となった。

心理治療を始めて自分を取り戻しつつある中で、性欲と思っていたものが急になくなった。同時に、相手にすがりつきたくなるような焦燥感もなくなった。自分の心の空洞を他人で埋める事など出来ないと、最近ようやく、心から理解出来た気がする。

そして昨日、『マグダレーナさん』と対話した。性に関する経験は殆ど黒歴史で、自分を傷付けた過去は暗い影だった。けれど、『マグダレーナさん』は、極端で方向性は間違っていたかもしれないけれど、何とか体一つで私をあの地獄から連れ出そうと果敢に挑戦したファイターだったな、と……その志、想いは有難いよ、と話した。『マグダレーナさん』は、静かに頷くと、すっと私の中へ消えた。

今現在の私は、性に対して嫌悪感を抱いている。誰かと肌を合わせる事を想像するだけで、ゾッとする。これが、過去の体験に対する反応なのか、本来の私なのか、今はまだ判断出来ない。


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