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子どもじゃなくて母性を育てている

息子たちの髪を乾かす時間が好きだ。

水浸しのままで逃げ回る子を追いかけ、体を拭いたりパジャマを着せたりする。すったもんだの延長線上にあるドライヤーは、そもそも面倒な作業なはずなのに。

あれだけ嬉々として逃走していたにも関わらず、彼らはどうしてか髪を乾かされるときだけは、ずいぶんと大人しい。熱いから少し離れてね、と何度言っても正座した私の太ももの上に乗るものだから、ちいさな背中をそっと押して距離をとる。

温かい風が勢いよく吹き出す。細くて柔らかい髪をわしゃわしゃしながら、目の前にいるかわいい対象をただかわいいなぁと眺める。いつのまにこんなに大きくなったんだろうとか、これまでの時間をどこに置いてきたんだっけとか、とりとめない思考が頭の中を泳いでいく。


最近、育児生活のしんどさが増していた。

現在5歳と3歳、反抗期。ただでさえ朝起きた瞬間から寝る直前までふざけ倒し、息子同士のケンカが耐えない中、引っ越しで一ヶ月以上べったり一緒にいたせいか、二人とも私への依存がとても大きくなった。

少しでも姿が見えないと探しにくる。ちょっとリビングから階下に荷物を取りに行こうものなら、上の階から私を呼び叫ぶ声がする。公園で遊んでいる子どもたちを夫に任せて飲み物を買いに行ったら、戻ったとき次男がギャン泣きして大騒ぎになっていた。

夫は相変わらず朝も夜も関係なく働いて忙しい。「任せきりでごめんね」そう言われることが増えた。なかなか母親の役割をおろせない重荷が背中から丸ごと覆いかぶさる。まだ周囲に甘えられる人もいなくて、いかなるときも夫婦だけで解決しなければならない環境は、すごく閉塞的だ。

例の感染が収まらない昨今、日本へはもう3年近く帰れていない。もちろん家族の来訪もない。地元へ戻った途端「母」から「娘」になり、家族に甘えて、育児の負担を担ってもらえる時間に、活力をいただいていたんだなぁと思う。

心にひとつ、またひとつと重石が積み上がる。先日、飲もうと思って淹れておいたコーヒーを口に含んだらあまりにも冷えていて、なんだか泣けてきた。長男とのケンカが原因だと思うが、たぶん重なった負担が涙へ化けてしまったんだと思う。

どんどん出てくるそれを子どもたちに見られないようキッチンで拭った。なんか似たようなこと書いたなぁと過去のnoteを探したら、つい一ヶ月半前もめそめそしていた。スパンが短い。耐性のなさ。


育児にまつわることが苦手だ。家事は不得手だし、不注意が過ぎる。駐車場に置いた車のドアが開けっぱなしで夫によく叱られるし、折り紙なんて3折り目ぐらいから雲行きが怪しい。キャパが狭いくせに、容易に請け負う。物言いも冷たいし、繊細に扱えない。赤点ばかりの教科で難関大学に挑むみたいな無謀さ。

仕事と両立させたいのに、すぐいっぱいになる。感情的に怒り散らす日も多いし、毎日ぐちゃぐちゃなまま寝室へ向かう。子どもたちの寝顔を見ながら、もっとやさしくできればよかった、としょっちゅうため息をつく。

なにごとも10000時間を積み重ねたら一人前になるという。そうかそうか、私にはまだ時間が足らないのだと思って計算したら、母親になって50000時間が経っていた。びっくりした。本来ならば五人前ぐらいになっているはずらしい。

母性が慢性的に不足している。これまでの50000時間、ずっとそう思ってきたし、なんだか辛くもあった。母性のタンクが人よりうんと容量小さくて、すぐに中身が欠如する。補う方法もわからないし、それすら余裕もないまま、どんどん残量が減っていく。


だから私は、子どもたちの髪を乾かすあいだ、心底ほっとするのだと思う。体を預ける彼らを無条件に愛しいと思える時間に。そんな自分に。

息子たちを眺めていると、育児って一体なんだろうと考える。彼らは私なんかより断然ピュアで、意志があって、創造性も瞬発力も高い。うれしいときはニコニコと笑い、気に入らないときはプリプリと怒る。大人になるとそんな簡単なことすらできなくなるのに。だから、何か教えるとかどう育てるかよりも、この子たちの真っ直ぐな部分を削り取りたくないといつも案じている。

私が育てなければならないのは、母性のほうだ。時間を積み重ねれば、タンクは大きくなるかな。そして、ようやく時々は赤点を脱せるようになった頃、彼らはすっかり少年や青年になっていて。

すぐそばにあった温もりや私を呼ぶ声を思い出し、恋しさを募らせたりするんだろう。

最後まで読んでいただいてありがとうございます。これからも仲良くしてもらえると嬉しいです。