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内閣総理大臣による昆虫食(踊り喰い)

 そのバッタは、一肘(いっちゅう)もあった。
 一肘とは、成人男性の中指の先から肘までの長さを言う。英語でcubitと言い、フランス語でcoudée、ラテン語でcubitus、ギリシャ語でπήχυς(ペキュース)と言う。古代世界では、西欧から南欧、中東、インドくらいまで広く使われていた尺度だ。
 つまり、このバッタは、人間の腕の半分の長さがある。異常だ。通常そんな大きさにまで成長しない。だがこのバッタは、カラス並の大きさにまで成長し、しかも大量に発生していた。数え切れない。色も緑色ではなかった。茶色だ。目は赤い。攻撃色だ。
 半島で発生し、南に向かっていた。発生原因も、南に向かう理由も分かっていない。今は釜山に集結している。そしてこのバッタが通った跡は文字通り、何も残らない。齧れるものは何でも齧るのだ。圧倒的多数で対象に集り、喰らう。それは人間も例外ではない。
 米軍も出動して対応したが、撃退された。火力攻撃は有効だったが、数が違い過ぎた。米軍は釜山を捨てて、半島から撤退した。北との戦闘より被害が出たと言う。恐るべき相手だった。古(いにしえ)に言う蝗害(こうがい)だった。
 「……総理、対策室の設置、完了しました」
 秘書官がそう言うと、その総理大臣は、すぐに緊急対策室に入った。
 「釜山から群れの中心が動いています!」
 対策室のパネルに、半島の地図が映り、南端の釜山から、赤く塗られた群れの塊が、海に向かって移動していた。対馬方面に向かっている。
 「……まさか海を渡れるのか?」
 防衛大臣が驚いていた。対策室に呼ばれた昆虫学者たちも困惑していた。
 「こんな距離を飛べる訳がない。飛蝗現象として在り得ない」
 釜山と対馬は、最短距離で50kmを少し割っている。
 「……では全て海に落ちるのか?」
 防衛大臣は言った。希望的観測だ。だが総理大臣は言った。
 「海上警備行動を発令」
 皆、驚いた。相手はバッタだ。前例がない。
 「聞こえなかったかね。海上警備行動を発令」
 総理大臣はもう一度言った。海上自衛隊が出動する。
 「バッタの群れを撃ち落せ。絶対に海を渡らせるな」
 対馬と壱岐の間は60km強だ。そして壱岐と九州の間は70km強だ。三段飛びか。
 「対策室も移動する。博多だ。最前線で指揮を執る」
 総理大臣はそう言うと、さっさと立ち上がった。皆、置いてきぼりだ。

 議員一年生、その内閣総理大臣は飛行機で移動中、夢を見た。悪夢だ。
 南の歴代大統領が出て来て、牢獄の中から叫んでいた。民衆も叫んでいる。声を合わせて、一千年の恨みと言っていた。半島がこんなに滅茶苦茶になったのは全部日本のせいで、それは1910年から始まったと言っていた。許さないと。総理大臣はそこで目を覚ました。
 蝗(いなご)の群れが、ドクロの形を取るイメージが見えた。これは大規模な呪いか?
 「……君、空海を知っているかね?」
 秘書官は突然声を掛けられて、びっくりした。隣で寝ていたのではなかったのか?
 「いえ、よく知りません。昔のお坊さんですか?」
 「そうだ。日本が生んだ偉大な巨大霊能者だ。祈祷で蝗害も退治していた」
 総理大臣の膝元には、なぜか『貞観政要』の文庫本がある。
 「私は空海ではないが、撃退の方法を知っている。またその資格もある」
 秘書官は、全く話について行けなかった。脈略が分からない。一体何の話だ?
 「因みに最澄は好きじゃない。国費で通訳を雇って、大陸に留学なんて、言語道断だ」
 どうやら遣唐使の話をしているらしい。平安時代の話だ。しかしなぜ?
 「空海は独力で中国語をマスターして、自費で留学している。両者の差は明らかだ」
 弘法大師空海とか、伝教大師最澄とか言われる仏教の話だ。この総理大臣は、よく歴史の話をする。困ったものだ。なお秘書官は、日本史も世界史も選択していない。地理だ。
 それから、総理大臣はスマホを取り出すと、娘の動画を見始めた。ファンシーステッキを掲げて、魔法少女に変身する。変身バンクだ。都庁戦で密かに撮影した。その後、ニュース・サイトで、街角のインタビュー動画を見ていた。総理大臣が批判されている。
 「……首相って日本の代表でしょう?それが、何でも時流に逆らって、皆の意見と反対側に行こうとするのはどうなの?民主主義で選ばれた人なら、もっと皆の声を聞かないといけないんじゃないの?これじゃあ、ただの独裁者よ」
 そのおばさんは、そう言っていた。次の動画は、サラリーマンの中年男性だった。
 「北方の大国と平和条約締結には反対です。国際社会で孤立する。北海道情勢を解決するためだけに、自国のエゴを押し通すのはどうなのか?国連で話し合って解決すべき問題だ。それから安全保障理事会で椅子を投げるなんて、一国の代表の資質にも欠けている」
 この国は言論の自由がある。国民は自由に首相を批判できる。とても良い事だ。
 日本国政府専用機、Japanese Air Force Oneは、九州に降り立った。福岡空港だ。博多湾に設置された新しい対策室に向かう途上で、新たな報告があった。
 「……総理、対馬・壱岐と連絡が途絶しました。住民の避難状況は不明です」
 その秘書官がそう報告すると、総理大臣は一瞬、沈痛な表情を見せたが、すぐに言った。
 「海上自衛隊はどうした?まだか?」
 北海道情勢と台湾防衛戦で、すでに約4割の戦力を喪失している。数も足りない。
 「……総理、モスクワからお電話です」
 秘書官が電話を持ってきた。総理大臣は黙って電話を取る。
 「我が国もウラジオストックから艦隊を出した。側面から日本を支援する」
 北方の大国の大統領だった。総理大臣は丁重に断ったが、先方は協力するの一点張りだ。
 「……総理、北京からお電話です」
 秘書官がまた電話を持ってきた。総理大臣は黙って電話を取る。
 「君!こういう時は好意を受け取るべきだよ。これは災害だ!人類共通の敵だ!」
 大陸の国家主席はそう言っていた。大陸も艦隊を出すと言う。もう放っておいた。
 
 現場は、黙示録的光景が展開されていた。
 海の上に、巨大な触手のような塊が蠢いている。全てバッタだ。一本当たり、数千万と推定される。本来であれば、バッタが飛べるような距離ではないが、あまりに大きな群れを形成した結果、自分たちの羽で気流を発生させて、飛んでいた。それが渦を巻いている。
 海上自衛隊佐世保地方隊を中心に、近くの艦艇が集められて、臨時の艦隊が出撃したが、明らかに数が足りていなかった。いや、往時の海上自衛隊の全戦力でも足りない。
 まや型護衛艦、あたご型護衛艦、こんごう型護衛艦から、スタンダードミサイル、トマホークなどが随時発射されて、バッタの群れを撃ち落していた。
 「……よーく引き付けて、群れの中心で爆発させるんだ」
 その砲雷長はそう言った。最新のまや型の一隻だ。CICは緊張に包まれている。
 最初は勝手が分からなかったが、触手を形成する中心核で、ミサイルを爆発させると、形状を維持できなくなって、纏めて海に落ちる。これを撃破と認定し、湧き上がってくるバッタの触手を、すでに何本も仕留めている。だがミサイルが足りなかった。
 「クソッ!後から後から湧いてきやがる!」
 砲雷長はミサイルの残弾が気になっていた。全て使い切っても、なお足りない。
 「こうなったら艦砲射撃だ」
 Mk 45 5インチ砲でバッタの群れを撃つ。艦隊は近接戦闘を仕掛けようとしていた。
 
 「……後は私が何とかする。下がりたまえ」
 総理大臣はそう言った。だが臨時艦隊は、バッタの群れと刺し違えてでも止めると言っている。ここで下がったら、九州はバッタの群れに襲われる。米処が危ない?
 「せめて現場に残らせて下さい!一匹でも多く阻止します!」
 まや型護衛艦の艦長は、悲壮な覚悟を示した。だが総理大臣は言った。
 「……いいから下がりたまえ。隊員の命が大事だ」
 だが艦隊は下がるにしても、近づき過ぎて、困難な状況に直面していた。援護が必要だった。不意にどこからか、三式弾が飛んで来て、空中で炸裂した。群れが纏めて落ちる。
 「殿(しんがり)は我が艦が務める!下がれ!」
 現場の自衛官全隊員が聞いた。無線放送とかじゃない。女の声?テレパス?
 それは霧の中から、うっすらと見えた。46センチ砲?幽霊戦艦?
 一体何が起こっているのか分からなかったが、とにかく海上自衛隊は下がった。
 
 もう博多湾には、バッタが飛び始めていた。とにかくデカイ。
 先行して上陸し始めている。住民の避難は始まっていたが、どこに逃げたらいいのか、分からない。家屋に立て籠もる事は、推奨されなかった。とにかく遠くに逃げろ?
 「……総理!危険です!下がりましょう!」
 秘書官やSPたちは、現場を視察する総理大臣を止めようとした。一体何を考えているのか?皆、傘を持って身を守っている。飛んで来るバッタと、ぶつからないためだ。
 「総理!危ないです!下がりましょう!」
 取材で付いてきた週刊ユウヒの女性記者も、総理大臣の腕を掴んで止めた。彼女も必死だ。だが議員一年生は、バッタを一匹、はっしと掴むとこれを見て、言った。
 「人以穀為命。而汝食之。是害迂百姓。百姓有過、在余一人。爾其有霊、但当蝕我心。無害百姓!」(人は穀物を命とする。それなのに、お前らはそれを食べてしまうが、それは人民を害することだ。人民に過ちがあれば、それは私一人の責任だ。お前らに魂というものがあるなら、私の心を食え。人民を害してはならん!)(注85)
 そして、バッタの胴体を真ん中からがぶりと食べた。バッタは二つに折れた。その後も総理大臣は、手当たり次第、飛んでいるバッタを掴むと、次々喰い始めた。
 内閣総理大臣による昆虫食(踊り喰い)だ。完全にオルギアだ。怪力乱心状態?
 「日本がそんなに憎いか!いや、違う!呪うなら俺一人を呪え!俺が悪い人だ!」
 すると、警護の責任者である左慈道士も姿を現して、バッタの踊り喰いに参加した。
 「……毒を食らわば皿までよ!おい、お前たち!出番だ!支援しろ!大きな夢だぞ!」
 もの好き、若い野次馬、年寄りの冷やかしも現われて、バッタを捕まえて、食べ始めた。皆叫んでいる。集団催眠状態か。毒?に当てられた秘書官たちも、異常行動に参加する。
 首席秘書官魏徴は、都内で随喜の涙を流していた。翌日、バッタは跡形もなく消えた。

注85 『貞観政要』呉兢 石見清裕訳注 講談社学術文庫 p600 2021年 蝗害に民が苦しむ姿を見て、太宗が思わずバッタを食べて、蝗害を祓った故事。

         『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード110

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