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意図がある表現よりも自然に生まれた言葉の方が人との出会いを作ってきた。

自分がいつも書き始めるときは、どんな精神状態なのかと今日は考えている。スイッチの入れ方みたいな。そういうの。

なんのために書いているのかもよくわかっていないんだけども。前からも言っていたけど、書いていた方が気分がいい。なぜか。

ただ、書かなければいけないってなると、どうもダメ。真面目にとか、誰かのためになるようにとか、学びのメモとか。そういうものに縛られるとまったく手が動かなくなる。

強制とか制限とかがプラスに働くこともあるのだろうけど、文章にするときはマイナスに働いてしまうみたい。

自分にとって書くことはとってもプライベートなことだから。あまりにも外を意識すると書けなくなると思う。超個人的な行為ということ。少しでも雑念が入るとダメ。これが仕事に繋がればいいなとか、読者が増えたらいいなとか。

そういうギラッとした空気を、自分のどこかにあるアンテナが察知して、ピタッと体の動きを止める。そんな感覚がある。

頭で考えすぎると、たぶん、ダメなんだと思う。それが得意な人もいるんだけども。思っている以上に、自分は感覚的だということを意識していた方がいいなと最近は感じていて。

頭の片隅に、理路整然とした文章の方がいいとか、無駄な言葉の集まりはダメ、みたいな価値観が潜んでいるような。

あらためて、思ったのだけど。なぜ、書いたり、表現をしたりするのか。自分は誰かと出会いたかったから。そして、語りあいたかったから。だから、自然体でいることの方が大事。

意図がある表現は、これまでを振り返っても、あまり縁は生まれなかった。どちらかというと、自然に生み出した写真や言葉の方が、多くの人との出会いを作ってきた。

それが、原点だった。

いろんなノウハウやテクニックに惑わされて、この原点を忘れてしまいがち。それに、自然体でいるのは難しいし、恥ずかしかったりもする。恥じらいを隠すために、意識的にふるまいを変えたりする。

周りを気にしすぎた。

個人的な行為は、いけないことのような感覚があるのもなぜか。こうして書いている時も、頭のどこかから「そんなことしても意味ないじゃん」と言ってくるやつがいる。

意味はないのかもしれない。意味はない。だから、重要なんだろう。意味と無意味のバランスを取るために。

日常も、意味あることだけで構築されている訳ではないから。今まで生きてきて縁が広がったのは、無意味に見えるような時間のなかにある、自然体な世界を共有してきたから。

日常の延長にあるオンラインにも少しずつ、そんな世界を広げていけたら。

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