見出し画像

124/1096 腰曲がりのジョー

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で124日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

124日目、まだベッドの中。熱が少し下がり、昨日よりは楽だ…今日こそはあとでパソコンに触ることができるだろうか。
今日もここ二日と同じく、ただ横になったままで毎日投稿を書いて、FacebookやTwitterをやっているだけの日だ。傍目にはただの療養中のぐうたら状態だ。

けれどわたしの心にはこの毎日投稿が暗闇の中の猫の目のように密かに、煌びやかに光っていて、今日のわたしにもミッションがある喜びをくれる。
だから今日も書く。ファイトー!いっぱぁ〜つ…!!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今日はまず、はじめに御礼を申し上げます。
これまで、裏自伝を読んでくださった方、それからサポート費を送ってくださった方、本当に本当に、ありがとうございました。
お知らせが来るたびにドキッとして、猛烈に感激しております。個別の御礼を送信できていなくて申し訳ありません。
サポートを送ってくださったお心を思うと本当に励みになります。心から感謝しております。
それから、改めて、裏自伝がどなたかの力になりますように。傷ついた女性の癒しにつながりますように。いつも祈っています。

最近、過激派になったわけではなく、とても穏やかに、「『無理をせず長生きする』のと『無理をして寿命を縮める』のどちらかだったら、わたしは後者の人生のほうが良いな」と思うようになった。

もちろん好きでもないことを無理してやる、それによって過労死する、というのは論外だけれど、自分がなにかを無理してやるとしたら、それはそれ相当に好きなことであるはずなのだ。
しかも、実際に死すほど無理をするなんて、とんでもなく好きなのだろうと思う。それが死の原因になるだなんて、幸せなことだと思えるのだ。

このところわたしは、長く生きるためにいろいろなことを抑えて生きる、ということに意義を見出せなくなってしまった。できるだけ長く生きようとすることが、いつの間にか魅力のある取り組みではなくなってしまっていたのだ。

生きるところまで生きるだろう。それまでは死ねないはずだ。死ぬまでは生きるだろう。それ以上は生きられないはずだ。長さなんて問題ではない。だから、早死にした人を「悲惨だ」と思わなくても良い気がする。みな、天命を尽くすのだと思う。

もしたとえば仮に、寿命がだいたい決まっているのだとしたら、これはなかなか面白いことである。

まず、それを調整しようとしても無駄だとなると、健康に気遣わなくてよくなる。
その寿命までは何としても生き延びるように設定されているとなると、それまではある意味不死身の無敵である。もちろん、それを試してみようとして高いところから飛び降りたりすれば死んでしまうが、そうでもない限り事故にも遭わず病気もせず、神の加護の元でその時までは生きるられるようになっているのだとしたら、なんと気楽なことだろう。
きっと多くの人がジャンクフードをたくさん食べるのではないかな!

そして、好きなだけ無理をするだろうと思う。
徹夜したらダメだよな、身体に悪い。病気したら良くないから、やめておこう。そう思って諦めることがなくなって、自由に好きなように夢中で何かをするのかもしれない。

わたしはしばらく前に湧いてきた、この気楽な発想に惹かれるようになってしまったのだ。
健康に気遣わなくていい、というのはわたしにとってものすごく解放感を感じられることだ。ということは、これまでも、なにも好き好んで気遣っていたわけではないということだ。

それ自体を楽しめる人ならば、たとえ気遣っても気遣わなくても同じように健康で寿命も変わらないのだとしても、楽しく健康に気遣うのだろう。
だが、わたしは気遣わずに済むなら最高だと思ってしまった。つまり、考えたくなかったのだ。身体任せ、感覚任せにしたいということだ。

だとしたら、今からそうすればいいのではないか、そう思ったのだった。わたしはもうすでに、好きなだけジャンクフードを食べるし、メインが肉食だし、炭水化物を大量に食べる。甘いものを食べるのは苦手でほとんど食べず、間食はほぼまったくしない。このように好きにしていて、健康診断ではまったく問題が見つからなくて褒められて、体脂肪率は17%程度だ。ならば忘れていいのではないだろうか。(たくさんの反論を覚悟の上で書いております…笑)

どうして自分は長く生きようとしていたのだろう。そんなことを最近思う。長寿がめでたいことだと、どうして当たり前に思い込んだのだろう。短命なのは果たして本当に不幸なことなのだろうか。
そして、なぜこんなにも、命を礼賛すればするほど、太く短く散るのもまたいい、と思いたくなるのだろう。

命は貴重だと思う。だから長引かせるのが良いのか、それとも好きなように使い切るのが良いのか。

わたしは、これすらも好きに選んで良いのだと思う。身体を大切にしながら無理をせず病気をしないように気をつけて、生木がゆっくりと燃えるように長く生きて幸せを噛みしめるも良し、可燃材のように一気に燃えて周りに火種を残して散るも良し、いろいろでいいのだと思う。

ただ、長く生きるほうだけが良く、短いのはそれより悪い、と洗脳されたままではいたくない。自分で考えて自分で選びたい。そうして納得の人生を生きて納得の死を迎えたいといつも思う。

そしてこんなことを書きながら、そう考えるわたしこそが一番長生きしそうな気もして複雑である。
おめー太く短くとか望んどったくせにクッシャクシャになっても生きとるやんけ!!みたいなことになりそうだ…人生はいつもこんな風に漫才みたいに痛快で本当に皮肉なものだもの!!

この太く短く、への憧れはどこから来るのだろう。
なぜ人は、長生きしましょう、長寿はおめでたいこと、と言いながら、命よりも何かを重んじて短く散った人の話に熱狂するのだろう。
なぜわたしたちは、生きたい、という遺伝子レベルの欲求を超えて死をも厭わぬほど何かを愛し尽くすことに憧れるのだろう。そこに生命を衝突させることに感動し、涙を流すのはなぜなのだろう。

そう、なぜリングで燃え尽きた矢吹ジョーにこれほどの賛辞が集まるのだろう。世界中の人が、あの若き最期を愛するのはなぜなのだろう。

もしもジョーが、「いやいや、これ以上ボクシングなんかやってっと危なっかしくてしょうがねぇや、やめたやめた、俺普通に働くわやっぱり」などと言って普通に仕事を始め、それ以降一生涯ボクシングに関わることはなく、食事のバランスに気遣って腰が曲がるまで長生きしました、という話だったら誰も見向きもしなかったはずだ。

それならジョー本人の望みだからまだしも、もしジョーが周囲の者たちに「これ以上ボクシングをするのはは危ないからやめなさい」とアドバイスされて、渋々いうことを聞いて我慢してやめて、一生それを心残りに思いながら大変長生きしました、という話だったらブーイングしか返ってこないのではなかろうか…
ブーイングを表す人だって、現実にジョーがそばにいたら、自分も同じようにアドバイスするに違いないはずなのに、だ。

その心残りを抱えた長生きは、おめでたいことなのだろうか。
ジョーがリングであの若さで燃え尽きたことは、不幸なことなのだろうか。
こう考えると、価値観が揺さぶられる。

人は、なんのために生きたいのだろう。この命は、生きる時間を長引かせるためにあるのではないはずだ。わたしたちはきっとどこかで、好きなもの、愛したもの、命よりも大切だと思えるもののために死にたいという欲求を持っているものなのではないだろうか…!

わたしはなんのために生き、死にたいのだろう。
生きる上での最大の喜びは、生きている実感そのものだ。わたしにとって生きているということは、それそのものが遊びだという感覚だ。
仕事が遊びみたいなものだったらいいな、と言う人もいるけれど、わたしはそもそも生きていることそのものが遊びだと思えば自動的に仕事も遊びのようなものになる気がする。それがつまらない仕事だって、ドラクエでレベル上げのためにずっとモンスターを倒している時間と変わらないとも思えてくる。つまらない、という経験もなかなかキツくて面白いものだ…

話はそれたが、この最も楽しい遊びの中で見つけられるもので、この遊びをを終わらせてもいいと思えるほど愛せるもの、とはなんだろう。禅問答のような難題である。

ひとつはもちろん、多くの人がそうであるように、わたしも愛する人や恩人を助けるためなら喜んで死ねる。見知らぬ人を助けるのだとしても、納得のいく良い散り方だ…!人の命はそれに値する。
でも、これ以外に自分を矢吹にしてくれるものとはなんだろう!

今、毎日こうしてスマホでこれを書いているのが負担になり、右腕の肘がテニス肘のようになっていてひどく痛む。しかし書くのをやめようとは思わない。これも矢吹の精神の一種だろうか…

あなた、それを続けていると死ぬわよ?
と言われて、それでも続けようと思うものがあるって素晴らしく幸せだ。そのために死ぬのはもしかしたら多くの人の望みなのかもしれない。
(もちろん、お酒やドラッグなどの中毒症状のことではない)

トンチみたいな話だが、
あなた、生き続けてると死ぬわよ?
と言われても、生きていることをやめるわけにはいかない。それでも続けようと思う。だから、生きているだけで素晴らしく幸せなのかもしれない。

我々はみな、生きて生きて、生き切ったために死ぬ。
あなたはなんのために死んだの?と聞かれたら、
「生きたんです、それに命を使い果たして死にました」と言える。
良い死でしたか?と聞かれたら、その答えに反映されるのは、生そのものへの感想なのだろう。

どう死ぬか、それはどう生きるか、だ。
わたしは悩むなら本気で悩み、ボンヤリするなら本気でボンヤリし、もし、愛想笑いをするとしたら本気で愛想笑いをしているような実感で生きている。
その本気度を左右するのは、どこまでそれをするのに自分で納得しているか、だと思う。

そしてその納得の発生源は、自分の命への愛だとわたしは思う。自分の選択や反応を、眺め愛でればただただ可愛いものである。

自分の悩む様子に胸が痛んでも、ボンヤリする様子が微笑ましくても、愛想笑いを哀れに思っても、わたしはすべての自分を我が子のように受け止めてあげることしかできない。わたしの場合はさらに不出来だから余計に慈悲の心が…
そしてあとは、欲しいものを好きなようにさせてやるために力一杯現実的に動くしか、自分のためにやれることなどないと思う。

自分をどれだけ愛しているかと聞かれたら、わたしは何と答えるだろう。わたしは、自分のことを眺めさせてもらえて幸せだ。わだスは、ミユさんが選んだごどならば、なんの文句もねぇンス。

だからきっと、無理をしたいなら無理をするだろう。それで死ぬのだとしても一緒に逝くしかあるまいて…自分よ、いつ何のために矢吹ってもいいからな…!!

今日は熱で結局起き上がれなかったからか命への思いをウダウダと語ってしまった…
でも、読んだお方には良い気が届くのだ。なぜなら本当にそう信じて書いているからなのだ。

それではまた、明日…!!

わたしのフェイスブックです。
良ければつながってくださいませ!
コメントなどでコミュニケーションしましょう~!
https://www.facebook.com/michie.suga

こちらはわたしのオフィシャルサイトです。
コンタクトフォームも設置されていますので、
noteのご感想などもお気軽にメッセージしてくださいませ!
(わたしに直接届き、わたししか読みません☆)
https://miyuworld.net/

こちらは、わたしの伝えている秘行というシンプルなワークのオフィシャルサイトです。
ワークのやり方がよく分かるようになっています。
よければご訪問くださいませ!
https://higyou.com/

TwitterとInstagramもよろしくお願いします。

Twitter
https://mobile.twitter.com/michiesuga
Instagram
https://www.instagram.com/michiesuga/


#命 #生命 #生きる #死 #自己受容 #自分を愛する #愛 #使命 #魂 #目的

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)