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132/1096 哀れみから、目を覚ます

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で132日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

1096日のうち、すでに12%の日にちを消費してしまった。
36ヶ月のうち約4ヶ月が過ぎた。この速さよ!!

ツイッターで感想をくださる方、フェイスブックで読後感をコメントしてくださる方、新しくつながった方、心を表してくださる方のすべてに、ありがとうと思う。わたしは愚かにも、今から終わるのが寂しい。

その寂しさに向かって、一日一日は木の葉が積もるようにしか進んでいかないというのに、風の中を突っ切るツバメのように、空気抵抗を最小にして、最大のスピードで進みたいと思ってしまう。

そして、そのラストの寂しさに最大スピードで突っ込んで、全身を粉々に砕いて、これをやり続けている間に自分が保っているであろう何かを破壊したい。

寂しさに泣け!やり残しの悔恨に苦しめ!到達して失うものに震えろ!
そのときに一体自分はどう思うのだろう。何を見るのだろう。
まだ見ぬ世界よ、ごきげんよう・・・・

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日本の武士の皆さま、春を遠くの焚き火のように捉えられるこの週末を、いかがお過ごしだろうか。わたしは雨上がりの真っ白な空の下で、この週末をヴェネツィア観光に当てた人々に少し胸を痛めている。

一生に一度のつもりで来る人もいるだろう。晴れ渡ったヴェネツィアを雨具なしに闊歩する愉悦の中で、輝く水路を見せてあげたかったと思う。
だが、そんなのは余計なお世話なのだ。きっとこの悪天候の中で訪れる人は、そこから何かを受け取る人達なのだ。

ヴェネツィアの観光地外に住むわたしが、時々用事があって島に行くと、そこは世界中から集まった観光者たちでごった返している。
すごい数の人達が、少しでも多くの景色を目に入れようと、少しでも素敵な写真を残そうと、狂喜の中でめいめいが夢中になっている様子を見ることができる。

中国からくるツアー団体も多い。その中にわたしは、頻繁に不思議な光景を見る。見た感じは70歳前後の老夫婦が、とても静かな、どちらかと言えばただ義務を果たすかのように硬い顔をして、無言で歩いているのだ。

彼らはなんの目的でヴェネツィア観光旅行に申し込み、わざわざ長時間のフライトを経てここに来るのだろう。何を期待してその工程を踏むことを選んだのだろう。感激する周囲の観光客たちの中で、黙って時がすぎるのを待つように歩く彼らは、カラー映像の中でモノトーン処理をされたかのような不思議な目立ち方をする。

年老いた人が寂しそうなとき、わたしはなんだか無性にたまらなくなって、駆け寄って、手をとって、笑わせて、抱きしめて、すべてを愛していると言いたくなってしまうことがある。
もちろん相手にしてみれば、余計なお世話である。
いきなり背のデカイ日本人女がウルウルしてあなたが愛しいですと言ってきても、だからなんだよ、勝手に哀れんでんじゃねえよ。と言われてしまうだろう。いや、その前に警察を呼ばれそうな気がする。

でも、わたしはこの心の中だけの余計なお世話が好きだ。
硬くシワの刻まれた顔を見るとなぜか、その人が幼かった頃を思ってしまう。まだヨチヨチ歩きだった頃のこと、まだお母さんのあとをついていこうと無邪気な笑顔で手を伸ばしていた頃のこと、それを可愛がって抱きしめたお母さんのことを勝手に想像する。

どんな人生だったのだろう。何がどうなって、このヴェネツィアのため息の出るような美しき水の都で、世界一ロマンチックな場所で、無数の人の喜びの渦中で、そんなに黙って下を向いて、いかなる喜びをも受け付けないような無表情を作ってこうして歩いているのだろう。

わたしは彼らを通して勝手な哀れみを持って、
それが自分の無力を悟るとともに虚しいほどに高まったとき、
あなたに幸あれ、と思う。
願いを宇宙に任せ、信頼して解き放つときだ。
そこまで思ってからいつも、ああ、彼らは幸せだ、と思う。

これとまったく同じことを、わたしは自分にしたと思う。
わたしは秘行によって自分を見はじめて、まず最初に自分をものすごく可哀想だと思った。
何かをサボったり何かに絶望したり、自分に思いつく限りの低評価をつけて痛めつけながら一生懸命に生きているのに、それでも自分に愛されなかった自分が、ひどく哀れに思えた。

さんざん哀れんだ。慈悲の心で一杯になった。
洗濯をする自分。自分をダメだと思いながら、日常的にそれに元気を奪われながら、お昼ご飯をつくって、外を歩いて、何かを心配して、たった100円高いだけの野菜をケチって買わずにレジに進む自分。

小さかった頃の自分を思いだすと、空を高いと思っただけで、雲が流れていくのを発見しただけで、あんなにも世界を愛していられたのに。
あんなにも未来を楽しみに、夢いっぱいに眠りについていたというのに。

あの頃の自分の無垢な期待は、いつどこで、ポトンと落とされてしまったのだろう。わたしはなぜそれに気が付かず、そのまま去ってしまったのだろう。そう思ったら、そのたびに目頭が熱くなって、涙が落ちた。

小さかった自分よ、長い時間をかけて、徐々にお前の夢を風化させてごめん。日に日に失望させてごめん・・・夢見たような大人になってあげられなくてごめん。今の自分はお前に会いに行けない。「ホラ、こうなったよ!!」と言いに行けない。とても可哀想で見せられない。そう思った。
当時の自分がこの未来を知ったら、どれだけ失望するだろうと思ったから。

それはすべて、何を仕事にしているか、お金がどれだけあるか、そんなこととは関係なかった。わたしが自分を幸せだと思っていないこと、唯一それが、見せられないと思う点だった。
そんなわたしの人生すべてを、わたしは哀れんだ。
それは、余計なお世話などではなかった。

そうやって気の済むまで哀れんで哀れんで、それからだった。
自分に「幸あれ」と思ったのは。
手放しに、なにかに向かって、幸あれ!!と。

そしてそれを心から願ってみてからだったのだ。
自分は幸せだと、気がついたのは。
今までも、これからもずっと幸せだ。
今の無条件の幸せは、永遠だ。過去も未来をも書き換える。

どんな過去を持っていても、どんな仕事をしていても、今お金を持っていようがいまいが、今夫とどんな関係であろうが、わたしは外側の一切の要素にまったく関係のないところで、ただ単に幸福だったと悟った日。
あの瞬間を今も覚えている。

それはとても重要で、かつ人生のいかなる他の場面よりも優れたものなどではない。人生の時間はすべてが平等に、まったく同じ価値を持っている。そのうちの1シーンだったに過ぎない。

けれど、「幸せになりたい」という欲から解放されたあの瞬間から続く安楽を、余計なお世話でもいいから伝えようとすることが、わたしは好きだ。
世を憐れめばいいと思う。好きなだけ、さんざん。涙を流せばいいと思う、気の済むまで。そして慈悲にまみれて、勝手に胸を痛めて、勝手に思えばいい。あなたに幸あれ、世界に幸あれ、と。余計な世話だと知りながら。

そこからしか覚めない夢があるのだと思う。
世界はこのままですでに幸福だ。
戦争を抱えたまま、もっと平和になるポテンシャルを持ちながら。

今日はここまで・・・
それではまた、明日!!!

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