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「最後の日」の選択

夢でみた。

あまり天気が良くない日、窓を開けている状態で空を見上げていると尋常ではない型のミサイルらしい飛行物体が低空で飛んで行った。

「最後」を予感して窓を閉めて鍵をかけた。それから何をして良いか、しなければならないかを考えているうちに夢から目覚めた。

あの弾頭が核爆弾だったならば、閃光とともに何をするか?何が出来るか?何をしたいか?を考えるまでもなく一瞬のうちに終わるであろうが、窓を閉めて鍵をかけたのは窓際から離れる日常のルーティンとしてよりも爆風を避けるべくしてのそれを予想しての行動だった気がする。

核爆弾ではない通常兵器(爆撃が日常ではないのに通常とは何だかという疑問もあるが…)だったならば、角度のない水平飛行だった事から、その予測着弾点からして自分の居る場所には被害が出るとも思えない。言うなれば通過した後の通常の日々、日常の延長が窓を閉めた後ももうしばらくは続く。閉めた後の2発目以降が直撃する可能性もあるが、目撃してしまった1発目の弾頭が日常を壊し、通常に被害が出て物流が止まったりインフラが破壊されたりするまではそれまでと何ら変わらなく続く日常の私生活なのである。まさにそれは着弾点の場所によっては対岸の火事の立場に置かれるのだろう。そして数日経てばきっとそれは映画か何か(テレビは見ないからない)の絵空事だったような完全なる他人事になるのだろう。

北朝鮮のミサイルが日本の領海内外を問わず着弾した時も場所も日本政府は調べて特定する事すらしない。いわゆる狼少年よろしくの嘘、偽りの可能性すらある。なぜならば危機や危険を煽る事によって政治家を始めとした金儲けのネタになるとはすでにわかってはいる。だからもちろんテレビは見ないし信用もしない。知らぬが仏とばかりに本当に起きたとしても、その時はお気楽で知らないうちに本当の仏になる事が出来る。現代社会においての最も幸せな事かも知れない。事実、現在の必要とするしないに関わらず情報量は必要以上、尋常ではない量で溢れ返っている。そこに一度でも入り込んでしまうと気が休まる事がなく心配事が起きる前に起きる事を心配して、そして起こってもいない事に対してもまでにも対応を心配して…心配は心配を呼び、果てしなく続く心配の渦の中に飲み込まれて過敏になり過ぎ過労死してしまうのではないかと思うくらい心配にならされてしまう(笑)。

でも実際にこんな夢を見た時くらいは考えてみたいと思っている。目の前に起きた時に果たして個人として最後の瞬間の直前までに何がしたいのだろうか。あれもこれもとバタバタして考えているうちに死んでしまうという事は避けたいし柄ではない。落ち着いて潔く最後にしていた事を続けて勤しみながら逝くのか?それとも最後のもがきとして生き残るための最善を尽くすべきなのだろうか?のどちらかになる気がしている。

今回のこの夢、この話には関係はなくとも最近は自らの歳も歳なだけあって死への前後をよく考えている。いわゆる終活というものを考えるようになってきている。死ぬ時は何も持って行けないとはよく耳にするが、死ぬ間際に何がしたいのか?最後に何が食べたいか?などとは考えが及ばない。もちろんあと何十年あるかも知れない自然死までの時間や余命宣告での限られた時間ではない今回のこの状況、普段の事とはまた違う。

突然訪れる最後かも知れない数分の間の判断、何がしたいとか出来るとかは実際の状況や周りの状態によっても変化するだろうし、その時になってみないとわからないものなのかも知れないが、夢から目覚めてからこれを書き始める前までは、出来る事ならば最後の1分1秒まで日常を謳歌していたいと思っていた。例えそれが寝ている時は寝続けるだろうし、何か作業中ならばそれを続ける事を望み、カメラ持っていたら最後の1枚とばかりに写真を撮っているのかも知れないと考えながら書き始めていた。

しかし当たり前かも知れないが、何回も状況を頭に描きながらシミュレーションが如く夢の続きを考えてみた。するとやがてトイレのような小さな個室に入っている姿が想像出来た。それはビビって漏れてしまった訳ではなく、用を足す為でもなく、小さな部屋の生存確率の高さを求めての事なのではないかと思う行動をとっていた。そう、それは飛行機墜落事故での生存もやはりトイレが強いという事から来ている。それ以外に逃げる時間も場所もない。

爆発は予定通りに起きたようで、辺りが非常に静かになっている中でギギギィーと音をたて個室の壁が四方向に倒れる。バタンという音とともにふかんの絵になると、焼け野原にポツンと便器に座っている自分がいるのみ…。

そんな漫画のようなエンディングにはならないのが核兵器というモノ。小さなモノをポトンと落としただけでも波紋はそこら辺全域、部屋の窓からそのミサイルの軌道が見えた場所を軽く覆い尽くした広範囲を一気に焼かれて墨になる余裕すらなく跡形も残してもらえずに消え去るしかない。

こればかりは致し方ないのだが、それにしてもこんな状況になってしまっても腑に落ちないのは、未来を作る若者達を広範囲にわたり巻き込んで犠牲にしながらも巻き込んでしまう事、そんな核爆弾が落とされる原因を作った政治を司る爺さん達は核シェルターで余命を生き残るであろう事である。

ちょうど今週末は地元の投票日となっている。地方選挙といえどもそれは国政へ対する意思表示となる。国政が多数決しか生きる道がないのであるならば、それは日本がなくなっても良いとの判断であり、焼け野原になるまでの残りわずかなカウントダウンである。今ここで諦めるか、もがいて闘う事が出来るであろうかは最後の日を迎える前、核爆弾が飛んでくるまでである。

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