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写真の良し悪しは構図で決まる。

フォローしている訳でもないのに「ちこ。さんがツイートしました。」とTwitter社から送られてきた。

「この人がいない世界なら生きていたくないと泣いた18の夜.」

小説ならば思わず読んでしまいそうな文句にクリックしてしまいました。しかしそこにはメールでも表示されていたこの文言と同じく1枚の写真があるだけでした。
見ず知らずの方のセンスのない写真にとやかく言うのも嫌なのですが、見てしまったものはひとこと言います(苦)。意図はわかるんですけど、『単なるピンボケ写真』にしか思えないこの写真、しかも半目なのかなんなのか。これだけの1行私小説でももう少し写真が良かったら数字も伸びたであろうに残念でしかならない。この写真の特徴を具体的に言ってしまうとピントの合っている人物手前のシーツのシワだけが気になってしまう写真になってしまっているのです。

確かに色合いといい、ピントを緩くすると柔らかなイメージが出来てこの文面に合わせたいい感じになるのですが、外し方の意味が違いってしまっており、しかもその表現に使用しているのが、その内容に最も遠いソニーのカメラ、付けたしっかり表現のツアイスレンズかよぉ〜(自爆)。

本題にうつりますが、そんなこんなの昨今、最近『エロ写真とは!?』を考えておりまして、でも世間一般に表示されているエロ写真にエロを感じないので深く深く潜航気味なのです。で、やはりというか何と申しましょうか、行き着いた先(終点ではない)が絵画なのです。

「やっぱりこっちに来てしまったかー」と自分でも当たり前にたどり着く絵画をまた学ぶ状態。『私たちは消された展』(毎年2月東京神田神保町)の主催者酒井よし彦さんが以前「悔しいけれど写真は絵画には勝てない」(発言切り抜きなので深く読まないでくださいw)と申されておりましたが、ボク自身は絵画を学べど常にそうは思わずにおります。ただ日本国の刑法上の制約で言うと絵画の扱いの方が上。『絵画は芸術で写真は猥褻』にされてしまっている現実もあります。絵画の表現は安泰で写真は通報からの逮捕&送検されて実刑か罰金にされてしまう。先日も・・・汗。

例えるならばバルテュスの1934年の『ギターのレッスン』、これなんぞが真仮なりにも日本にやって来てしまって国立新美術館(うちから一番近いので是非お願いします!!)あたりに飾られてしまったら、それこそ美術愛好家、同調一見さんなぞは有り難がってしまうのでしょうが、冷静に観たら虐待と猥褻でアタオカな絵でしかない(自爆)。

バルテュス『ギターのレッスン』(1934)

バルテュスと言えば2014年に上野の東京都美術館来た『夢見るテレーズ』(1936)はその3年後にはその絵の『我が家』、ホームのニューヨークのメトロポリタン美術館(所有)で1万人以上の署名で撤去を求められていました。でも頑なに展示され続け(偉い!)ている。ただこれ、今の日本社会で、日本社会でどこかでの開催だったら同調圧力で撤去になっちゃう気がするのですが、それを騒がれなければ有り難がる日本人で無事に開催できるのでしょうか!?
今となってはわからないのですが、2014年ではなくニューヨーク騒動があっての今2022年だったらこのマスク同調社会をみれば自ずと目に見えて来てしまいます。今後ともスポーツの国際大会、美術品展示、エキジビジョン、その他もろもろ是非とも日本以外で開催してください!!

撤去といえば、2018年2月イギリスのマンチェスター市立美術館で予告もなく突然7日間だけ撤去されたジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの「ヒュラスとニンフたち」、この絵をボクも何度か行っているオランダ、フローニンゲン美術館ではウォーターハウス展を行った際に実際に演者をオーディションで選定して写真にしていました。さすがオランダ!!(でも選ばれた女性たちはどうみてもイタリア系でアランダ系ではない。男性もw)

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス『ヒュラスとニンフたち』(1896)

ヨハネス・フェルメールも写真学校で最初に教わるレンブラントライトの生みの親レンブラント・ファン・レインもオランダの画家。レンブラントはライデンの出身、ボクが住んでいたロッテルダムから電車に乗ると必ずと言っていいくらいに通るターミナル駅のある場所なのできっと当時も栄えていたことでしょう(遠い目)。さて、オランダは美術家も多く理解力あるというか素晴らしいマインドの国、例えばイタリアでは女子が生まれたら女性として育てられるのですが、オランダでは男女どちらでも『人』として育てられるために男女の差別、違いが全くありません。そこがボクが3年暮らす場所をオランダに決め、美術以上に好きなところでした。

すっごく話が脱線を繰り返し遠回りしてしまいましたが(大汗)、バルテュスもボク自身個人的には好きな作画ではなく、タッチ自体は巧いとも思わない(偉そうにすみません、話の展開上w)のですが、下手とも思えず、四角の絵全体としては、こんなボクでも凄いと思えることが出来ています。そして身近な素人さんや無名の作家さんの絵でも作画自体は下手くそなのに絵画としては凄く惹かれ、良い絵が存在しているのもずっと感じていました。それを改めて考えてみると、写真撮影の技法としても見えてくるものがありました。それは構図、やはり構図以外のなにものでもないことがわかります。色やその描かれたり撮影されたりした背景でもなく、構図。

冒頭、ちこ。さんの載せていた写真、構図さえ良ければ手前のシーツのシワも気にはならなかったのだと思います。

構図、構図、構図。

好事(こうず)とはモノ変わりなものを好むことをいうそうで、求めているものが変わった構図だったとしても、それはどこまで未来永劫行ったとしても「良い写真は良い、つまらない写真はつまらない」という不変性を表しているのだということを改めて学んだ美術学習でした。


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