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自分、私って?

本当の自分、本当の私という言葉があるが
そもそもの話それは何を指すのかと。

日常生活では「私」や「自分」という言葉は、ここにある肉体を指す呼び名として他者とのコミニュケーションにおいて機能している。

本当の自分や本当の私という言葉は、非二元やスピリチャル界隈では、源泉、真我、神意識などを指すものとして使われてるのかと。

この「私」「自分」という言葉は結構厄介だなと思うのは、ひとつに、便宜的な呼び名というところを超えて、まるで私、自分、という個別の実体があるかのように錯覚してしまうこと。
そして、それが基盤となって現象の構造が織りなされているとさらに誤解してしまうこと。

本当に正直ベースで、目前の現象を確認してみると、自分などという実体は、思考や言葉、記憶などの概念を除き、実際にはどこにも存在しないし、まして当然あるものと思われがちな「心」もどこにありますか?という。

実体のないものを実体のあるものとして誤解するとき、そこにはいろんな無理が生じるので様々な問題が出てくるように思う。

もちろん、実生活の中では、この肉体を指す自分という言葉を使うことで、様々な意思疎通が図られ、コミュニケーションや社会活動が成立している。
しかし、そのような客観的社会的な概念による世界の見方だけでなく、実は、今ここ目前に開けている現象をありのままに観る主観の世界がリアルに生じているわけで(というか、いまここ目前の現象以外は見あたらないわけで)
、このリアル現象では、全体と分離し個別に自性する私も自分もあなたも犬も猫も空も海も無く、ただただ現象が複雑かつ非常なる秩序で連動、運動、変化し続けているのである。

客観の世界だけを現実とし、主観の世界が忘れ去られる時、エネルギーの流れはバランスを崩し、滞り、現象に様々な影響を与える。
例えば、人間の生活や娯楽のために自然をその資源•素材としてしか捉えない偏った見方で関わり、断片的に搾取し、活用するがゆえ、本来の自然な現象バランスが崩れ、乱れ、さまざまな問題が起きているのはまさに現代社会の由々しき問題そのものだろう。

そもそもの自然の営みが、人知を遥かに超えた全体で運動する精密緻密な生命維持のシステムであることを謙虚に注意深く理解せず、断片的にバラバラに自己中心的に解釈し、雑にいじり倒して破壊し続けているのが人類のやっていることだろう。残念ながら。
もっと自然の作用をリスペクトし、注意深く学び、人間の利己的な目的のための資源として使うのではなく、「人間」対「自然」などの分断的な捉え方を超えて、生命現象全体がより活かされるような人類の関わり方を模索し、その時、現象がどんな瑞々しい振る舞いを見せてくれるのかを見守るような進み方ができないものかなーと切に想う。

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