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ハロー、ちっともエモくない29

 フリルレタスと食パンと栄養ドリンクが入ったエコバッグをぶら下げてダラダラと歩く。ああ、姿勢悪いな、歩き方ダサいな、とちょっと反省して姿勢を正し、颯爽と歩く真似をしてみる。玄関の近くで女の子を右腕に抱いた男性とすれ違う。こんにちは、と互いに頭を下げる。女の子の目の水分が多くてまんまるで吸い込まれてしまいそう。かわいいな。思わず口角が上がる。

 二十九歳。たしか、私の母が、私を産んだ年齢。なにかの間違いでこの世界にハローしてもう二十九年。来年には三十歳。みそじ、って言うらしい。なんだかみそじって響きが好きになれない。

 友人が転職したり結婚したり出産したりしている。周囲の知り合いのSNSの内容がどんどん変わってゆく。LINEのアイコンが子どもや結婚式の写真になったり、ユーザー名の名字が変わったりする子も当たり前になって、見慣れた景色になった。

 一方で私は何も変わっていない。大学を卒業してから就職して、ずっと同じ会社で働いている。ずっと一人暮らし。ずっと何も変わらない。この先、変える気もない。変えたいと思う元気も今はない。

 あせりは、正直ちょっとある。ううん、うそ、だいぶある。三十歳を目前にして恋人もおらず、結婚する未来すら見えず、自分自身を養えているから今はまあいいかとも思うけれど今の仕事は体力的に定年まで続けられるとも思えないし、転職するにしてもなんの資格もスキルもなくて、やりたいことも大きな夢も特にない。自分のために時間もお金も全てを使えるのはとても喜ばしいことで、同時にとても虚しい。

 過去に、結婚するのならこの人とがいいなと思う相手がいた。世界でいちばん好きだと胸を張って言える人だった。でも、その頃の私は結婚というイベントについて現実的に考えることができなかった。若くて、幼くて、まだまだ自分勝手に生きたいと我儘な希望を持っていた。仕事だって辞めたくなかった。このタイミングで辞めてしまったら、自分の中に何も残らない、仕事の成果を一つも実感できないと思ったからだ。仕事のことだけを考えて突っ走れるのは今しかないとも思っていた。対照的に、私より年上だった相手は、結婚に意識が向いていた。何度も結婚の話が出て、私はなぜ彼がそんなに結婚がしたいのだろうと理解できなかった。当然、衝突した。別の様々な理由も重なって、結果的にさよならになった。

 今ならわかる。結婚したいって焦っていた相手の気持ちが、わかる。何故なら、私も二十九歳になったから。その年齢にならないと分からないことってきっとたくさんあるのだと思う。友人や知り合いの結婚報告を聞くたびにおめでとうという気持ちと、得体の知れない焦りが同時にやって来る。でも、その焦りは、無意味なものだ。この年齢の人間にありがちな、ただの単純反応なのだと思う。あの選択肢をとっていたらどうだったかなと思い巡らすことはあれど、今歩いている道が私の正解なわけで、今まで選んできた道に後悔はしていない。恋愛は性に合わないことにも気付いたし、自分を大切にすることがいちばん大事だとも理解した。エモくて苦い恋はもうまっぴらで目の当たりにすると胸焼けを起こすくらいだし、駆け引きも計算もなにもしたくない。

 この年までひとりで暮らすことができたということは、これからもひとりで暮らしていけるということだ。ひとりは快適だ。好きな時間に起きて食べて寝て、誰にも邪魔されず好きなことができて、家事をいくらサボってもよくて、部屋を自分の好きな温度と香りにして、お風呂上がりは下着でウロウロして、朝からアイス食べて、夜中にコインランドリーに行く。へこんだ時はひとりで思いっきり好きなだけ泣けるし、ストレス解消のために暴飲暴食してもとがめられないし、体調が悪ければ仕事から帰ってすぐに眠れるし、イライラして辛くて仕方ないときは誰にも干渉されずに布団の中に逃げ込める。良い時も悪い時も、もう自分の機嫌の取り方も対処法もわかっている。正直、この生活は手放しがたい。

 だけどたまに、ほんのたまに、人とご飯を食べたい時がある。ほんのたまに、愚痴を聞いてほしい夜がある。ほんのたまに、慰めの言葉とか優しい声かけとかいらないからただ誰か側にいてくれって思う心細い日がある。

 どちらを取るか。後々の面倒くささを想像すると、一瞬の寂しさに負けてしまうのはリスクが高すぎると思う。恋愛はおろか、人付き合いも下手なので、このままひとりの方がしあわせでいられるのではないかとも思う。一から恋愛をする気力がない。泣いたり笑ったりキュンとしたり嫉妬したりする感情が枯れている。穏やかでいい。波なんてなくていい。

 私たちは、次に付き合う人で最後!!と何度言うのだろうか。

 これからもしも万が一、恋愛することになったとしても、きっとちっともエモくない。ピュアな心だけじゃ生きてらんないし、ダークな沼に足を突っ込みたくもない。必要なのは現実とどれだけ向き合えるかだ。知らないうちにでっかい青あざを作っていた。いつのまにこんなになっちゃったんだ。青あざを押したらしっかり痛い。かすり傷をかすり傷とも思わなくなったよ。二十九年生きたから、ずいぶんと強くなったよ。ハロー、ちゃんと聞こえてる?ハロー、ハロー、ここにいるよ。迷ったり焦ったりしながら、それなりに生きているよ。何歳になってもずっと自分という人間でいなきゃいけないんだから、その覚悟はあるよ。大丈夫。







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