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「今日はあなた(自分)を守ることができたよ」と言えて眠れた昨日の話

もうひとつの面にスポットを当てていくような2週間

昨日の投稿の最後の方にも書いたので、少し重複してしまうけれど、昨日はとっても濃い1日だった。

ここ2週間ほどは、社交的(に見えて)で明るく芯のある自分、という言ってみれば自分の片面のみを切り取って外に見せていたようなところから、

実はその面と同時に存在している、傷つきやすく、落ち込みやすく、人の言動に左右されやすく依存しやすい、とっても弱い自分や、爆発的な憤りを感じているような自分にスポットを当てていくという日々を過ごしている。

そして、その面が「生きづらさ」だと思ってきた私は、なんとかそこを変えよう変えようとして模索し続けてきて、精神世界や宗教などにも傾倒したりしながら、40代に入ったところ。

「変われたかも、うまくできるようになったかも、少しは強くれたかも」なんて一時的には思うのだけど、結局のところ心がなんだか苦しかったり、5年前にはパニック症を発症。パニックとの付き合い方も少しずつ見えてきたかな?という最中、また1ヶ月ほど前に再発。

どうやったら生きやすくなるんだろう・・・。八方塞がりだった私はとある信頼のおける方に相談し、そこで言ってもらった言葉は「いい人をやめる」ということだった。自分の見たくない面を排除したり抑圧しないこと、そういう面も自分の一部なんだ、エネルギーなんだと受け入れていくこと。

そうすることで、生きやすくなっていくんじゃないかなということだった。


一番パートナーの前で「いい人」をやってしまっていた

そこで色んな自分を繊細に眺めていると、結婚当初はものすごい喧嘩を繰り返していた時期もあったからか、だんだん「喧嘩しないこと」「ずっと仲良しなこと」という夫婦像が自分の中で作り上げられてしまっていた。

必要以上にニコニコしていたこと、自然にやっていると思っていたことに、ものすごい気力を注いでやっていたこと、苦手な家事や掃除に関してもマイペースではなく「相手の思うペース」を一生懸命に成そうとしていた。

私の父は典型的なADHDで、私自身は診断を受けたことはないけれど、当事者の友人からはADHD/ASD混合だと言われたり、それらしい解説を見ると当てはまるところが多い。HSPという繊細な面を持って生きているという性質もあると思う。

そういった性質は当然「怠けている」から生じているのではなく、本来の性質であって、それを変えるということは、言ってみれば「人間が鳥になろう!」という位に不可能なことだし、それは悪い面でもなんでもなく、その人らしさ、個性、才能とも言える。

けれど、少数派と言われるような性質を持って生まれた自分は「なんで〜できないの?」とか「考え過ぎでしょ」とか、母にもパートナーにも言われてきた。

そして何より自分がその考えを採用して「〜できない自分はダメなんだ」と思い込んで、自分を責め続けて、そして生きるため、愛される為に、自分をできる限り「普通」に見えるよう変形させ続けてきた人生だったんだと今は思う。

そんなこともあって、うまくいっていると思っていたパートナーとの関わりも、自分を絶え間なく変形させ続けることでなんとか保っていたのだとわかった。誰よりも愛されたいからこそ、他の誰よりもパートナーに対して「いい人」」をやってしまっていたのだ。


表層的な現象ではなく「私はこれでいいんだ」と思えているかどうか

生きていく為に偽りでやってきたことをやめていくこと、そこに違和感をみていくことは、自分の思い込んできた「安定」の世界を一旦破壊することでもある。

見せかけの「安定」だとしても、人との喧嘩やそこで感じるフラストレーションからなるべく逃げてきた自分としては、なかなかなプロセス。

それでも、私はこのままでは死んだように生きるだけなんだ、と今はその違和感を丁寧に丁寧に見ていこうという日々を送っている。

そんな中、昨日は些細なことだけれど、普段何か指摘を受けた時に、ヘラヘラと平気なふりをしていた自分に気づき「それは嫌だ、私は私のペースでやりたい」とパートナーに伝えた。相手はものすごく不機嫌になった。

そして、そこから色んなことがあって自分を顧みた時に、そのやり取りの中でもっと細かく何が自分の中で起きていたかを振り返ってみた。

私は相手に自分の思いを言えたにもかかわらず、少しもスッキリなんてしていなくて「怒らせてしまった。相手も色々と我慢もあって、そんな中笑いながら言ってくれたのに、などなど。結局「やっぱり私がダメなんじゃないか」と心の内で思っていた。

その時思ったのは、結局のところ、誰かに言えるとか言えないという表層的なことではなくて、とんな現象でも、心の内で「私が私のことを否定しないでいられているか」「私は私なんだ、私はこれでいい」と思えているかどうかなんだ、と思った。


愛されることよりも、自分で自分をわかってあげるという死闘

そんなことにハッとした後の午後、パートナーと「言いっぱなし聴きっぱなし」の時間を持った。相手はやる前からすごくイライラしていて、自分の持ってきたものを置くのに邪魔だと思ったのか、テーブルにあったリモコンを蹴飛ばしたりしていた。

そういう時(相手が不機嫌そうな時)にすぐ浮かぶのは「私は悪いことをしたんだ」と思ってしまう癖。だけどそれに気づいて、ゲーム視点を思い出す。

「いやいや、また"私が悪い"ちゃんが出てきてるよ。でもこれは本当にそうか?」「私はこういう物にあたるような人は嫌いだな〜、怖いな〜」

そして「何を選択しよう?①気にしていないフリをする ②そういうの嫌だと言う ③そういうのは嫌だなという態度だけは取る」ふむふむ。①も②もなんか違うな、③にしよう。と、決めて、いつものように縮こまったりせずに、しばし私も不機嫌そうにしていた。「私はそういうのを見るのが嫌なんだ」というシンプルな想いを大事にできたら、心の中にいる自分が、なんだか喜んでいるのを感じた。

対話といっても「いい人でいなくてもいい」というポイントがなんとなく行き過ぎているようにも感じたけれど、生々しい相手の怒りも不満もそのまま出てきていて、途中までは私も凛として私の思いを話せていた。しかし途中で、言われたら困ることが出てきた瞬間に、自分のエネルギーがどんどん縮こまっていって「私は最低な人間だ」ということが浮かんできた。喉もギューっと詰まっていく。

「わぁ〜また始まった」と眺めている視点もありながらも、ものすごいフラストレーションと自責の念、それでも自分という存在の尊厳を失わないんだというところを行き来して、なんとか対話の時間が終わった。

立ち上がったら、足はガクガクしているし、ふくらはぎは片方攣っているような筋肉痛のような痛みが出ていて、びっくりした。愛されようと「いい人」でいることは自分を変形させることだけど、やっぱりその方が楽な面もある。そこから「自分で自分をわかってあげる」というところに立っていくのは、死闘かよ、というほど大変で、少し笑えた。


思い出せないほど久しぶりに母に自分の気持ちを言ってみる

昼間、母から電話があった。妹の鬱や過食症、そして私のパニックなども経験することで、母も「そのままでいいよ、頑張らなくていいよ」という寄り添い方を大切にしてくれるようになってるのだけど

ふとたまに、「なんで〜しないの?せっかくなんだから〜しないと」という言葉が飛んできたりする。昨日もそれがあった。

いつもはこういう時も、傷つかないフリをして、あははって愛想笑いしてやり過ごすのだけど、「お母さん、私もね、色んなことを考えて出来る限りのことをして、選択したことなんだよ」と、凛として伝えられた。

それは怒りでも捻くれでもなんでもない、まっすぐ喉からスーーーっと放たれるようななエネルギーだなと感じた。心地よかった。母にこんな風に言い返したのって、いつぶりだろ?って、思い出せないくらい久しぶりのこと。

そして、私は何が嫌なんだろう?と思うと、自分はとても繊細に物事を考えて、その中で最善と思うことを選択しているのだけど、そのプロセスをすごく軽視されたような気持ちになるからだ。

だから、私は人がした選択を尊重したい。たとえ自分からどのように見えたって、その人がその人なりに、最善と思うことを選択しているのだということを尊重する人でありたい。


「今日はあなた(自分)を守ることができたよ」と言えて眠れた

そんな母とのこともありつつ、珍しいことだけど、夕方にもパートナーとの「言いっぱなし、聴きっぱなし」をやった。パートナーは、これまで我慢していたこととして「相手のことを言わない」というのを我慢していた、という前置きをして、これはジャッジメントだということも言いながら話始めた。

前のコミュニティでは、私もパートナーもそこの中心にいた人も依存していた。だからこそ、パートナーは「もう明け渡さないんだ」という信念がものすごく強くある。そんな思いもあって、最近、私がボディーワーカーの人や私の信頼のおけるセラピストの方に「また明け渡してるんだね」「また人の言うことばかり取り入れるんだね」「自分の中に芯があるのに」と言ってきた。

明け渡さないことでパートナーはパートナーの力を取り戻して行っているようにも見えるし、かと言って境界線を強めている様子は、少し硬い印象もある。それでもプロセスだから、悪いことだとは思わない。

けれど、パートナーの「また明け渡すのか」という言葉を聞いて、一瞬ビクッとしたけど、「私のことは私が決めるんだ」という気持ちが湧いてきた。だから「明け渡しているかは、私が決める。そして、「私のように今現在、パニックというものが出るほどに限界の限界を迎えている人に対して、そういう意見を言うことは、一歩間違えればに死に追いやるほど危険な言葉だと私は思う」と冷静に伝えた。

その後「やっぱり言いたいことは伝わらないわ」「もうこの関係にこの先なにかいいことがあるとは思えない」みたいな事を10分ほどパートナーが話続ける。この関係がいかにダメが、希望がないか、みたいな話。

それを聞いている私は一瞬縮こまりそうになりつつもハッとした。私はこういうことを聞くと、「相手からこう見えてるんだ、そうじゃないよって頑張って見せよう、弁解しよう」とかしてきたなと。私は相手をがっかりさせる事を極端に恐れているのだということも。

それでも、「私はこういう話を聞くと、がっかりさせたくない・・・という気持ちで自分を変形させてきたんだなと今は思う。無意識に相手の思う正解を生きないとってずっとやってきた。だから私にとっては、他の誰かに例え明け渡したりしたとしても、あなたにだけは明け渡さない。私は私の人生を自分で選択していく。それこそが、今なによりも大事な選択。私は、私と言う存在の尊厳を、自分で守りぬく。例えあなたにがっかりされたとしても、それも受け入れていく」と。

少し怯えながらも、私の中にスーーと通る凛としたものを感じた。それを聞いてパートナーは「それに異論は全くない。自分も、自分のことを自分で守る、と決めてやってきて命を吹き返してきたから」と。その後は、また私だったり今の環境への不満をずっと話していたパートナー。そして対話の時間は終わる。

当然、気持ちのいい終わり方ではなかったけど、私の心は清々しかった。夕飯に親子丼をつくって、もりもり食べた。

そして眠る前に、今対話しているぬいぐるみを目にした時に「今日は、あなたのことを守る事ができたよ」と自然にそんな言葉が出てきた。可能性を感じた一日だった。

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