midorigyoza

下北沢生まれブラジル育ちオレゴン育ちサンフランシスコ育ちロサンゼルス育ち世田谷暮らし。

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マガジン

  • 人生が100秒だったら

    私に起きたことを100秒くらいに縮めてみよう。人生最期の瞬間、まぶたにフラッシュバックされるっていう、あんなふうに。

記事一覧

二重まぶたスプーン作戦

朝、学校へ行く支度をしている時、母から渡されるものがあった。それは「スプーン」。お砂糖を入れたり、紅茶をかき混ぜたりするあの小さなスプーン。 私はそのスプーンを…

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3日前
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ルイス・アウグスト

1枚の集合写真しか残っていない。顔だってちゃんと覚えているわけじゃない。だけど、だからこそ永久保存してある名前から、何か解凍できるかどうか、、試してみよう。 初…

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10日前
10

小学校の頃がいちばん楽しかった

馬鹿にされることを覚悟で、あえて言う。 小学校の頃がいちばん楽しかった。 なんじゃ、その後の人生はおまけかい?お前のピークは小学校かい?と言われることを承知の上…

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2週間前
14

脳のチューニング

はじめての学校は、戦場だ。 後年アルバムを広げて「カワイイ」とか「懐かしい」では言い尽くせない、生き残りをかけた世界だった(はずだ)。大人になりきった今、あの時…

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3週間前
6

絶滅危惧種

朝いちばん、慣例の儀式があった。 親戚中の同じ年頃の孫達(上は小学生〜下は幼稚園児まで)がずらり畳に座って待っている。目の前のふすまがシズシズと観音開きに開くと…

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1か月前
9

犬の話だけど犬の話じゃない話

一度だけ、短い間だったけど犬を飼ったことがある。子犬の時もらってきて、子犬のまま手放したから、記憶の中は今でも子犬のままだ。 名前はポンゴ。 ディズニー映画「101…

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1か月前
6

カウボーイになりたかった

ビリーザキッド、ワイアットアープ、ドクホリディ、、西部劇小説を夢中になって読み漁っていたちょうどその頃、テレビではローハイドとかララミー牧場をやっていて、私はジ…

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1か月前
6

制服を着る

こんな私もかつて制服を着ていた。 通算して7年、幼稚園、中学、高校の時代に。 アルバムに残っている入学式の写真は、どれも「誇らしげ」に写っている。カメラの前でポー…

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1か月前
6

目を覚ましたら、世界が変わっていた件

1963年11月22日金曜、ブラジル サントスの自宅。あの日、あの時間、私は昼寝から目を覚ましたばかりだった。 それが色なのか、ニオイなのか、わからなかったけれど、自分…

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2か月前
4

お雛様

母の手は、いつも何かを作っていた。 子供の頃、私たち姉妹のお出かけ服は全て母の手作りだったし、夢中になって遊んだリカちゃん人形の服、新聞紙入れや小物入れなど木…

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2か月前
9

脳内8ミリ

6歳から9歳まで暮らしたブラジル・サントスの記憶は、アルバム2冊の白黒写真に残っている。これはそのアルバムの中には残っていない出来事の話だ。写真という形で残されて…

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2か月前
10

次のドリルがあった日々

小学校1年から3年まで、ブラジルのサントスで日本語学校に行っていた。1年生から6年生まで生徒8人に先生1人。教えてくれていた遠藤先生は、日本から移住してきたもと小学校…

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2か月前
8

影の無いお友だち

ブラジルに行ったばかりのころ、私には友だちがいなかった。近所の子と遊ぶためのポルトガル語も、アメリカンスクールで勉強することになる英語もつたなかったからだ。 そ…

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2か月前
14

フロリアノ ペイショット ヌメロ100、 サントス、ブラジル

天井が抜けたみたいだった。言葉で言うなら、そんな感じ。 それまでの私は、フカフカの真綿にくるまれて鞘の中でじっと息を潜めているような子。滅菌空間で育てられた「…

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3か月前
10

おじいちゃんが写したかったもの

祖父は写真に凝っていた。 昭和の初め、日本ではまだ珍しかったライカで撮った写真を自宅の暗室で現像するほどだった。唯一の趣味だったと思う。 決して饒舌とは言えなか…

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3か月前
10

モルフォ蝶に会いに

どうだい綺麗だろ、モルフォ蝶。 おじちゃん、私、これ飛んでるとこ見たよ。 おっ、すごいね、どこで。 ブラジルの公園で小さい頃。 木漏れ日が眩しい日曜日、のんびり日…

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3か月前
8

二重まぶたスプーン作戦

朝、学校へ行く支度をしている時、母から渡されるものがあった。それは「スプーン」。お砂糖を入れたり、紅茶をかき混ぜたりするあの小さなスプーン。 私はそのスプーンを使って、左右のまぶたを変わりばんこに押し上げ押し付け、無理やり二重を作るのである。無理やりだから、スプーンをまぶたから離すとすぐもとに戻る。 当たり前だ。 遅刻しそうになると、食べかけのパンを口にくわえながら、ランドセルを肩に担ぎながら、片手に持ったスプーンでまぶたを抑えながら、走る。 思い出すだけで、冷や汗が出る

ルイス・アウグスト

1枚の集合写真しか残っていない。顔だってちゃんと覚えているわけじゃない。だけど、だからこそ永久保存してある名前から、何か解凍できるかどうか、、試してみよう。 初恋の人はルイス・アウグスト。 私だけじゃない、クラスみんなが一目置いていた。黒い髪。黒い瞳(だったと思う)。黒縁メガネがカッコ良かった。白シャツに黒いズボンは地味だけどオシャレ。(遠い記憶の彼方、想像の域)でも外見だけじゃない。そこ強調したい。 うまく説明できないな。 立ち居振る舞いなんてもの、たかが6

小学校の頃がいちばん楽しかった

馬鹿にされることを覚悟で、あえて言う。 小学校の頃がいちばん楽しかった。 なんじゃ、その後の人生はおまけかい?お前のピークは小学校かい?と言われることを承知の上で、あえて言う。いちばんと言う言葉は感情的なものだ、という分析に私はいちばん賛成したい。ホント、理性なんて要らないのだ、あの時代に。 私は10歳で、時は昭和40年代で、場所は世田谷で。近所にはあちこちにまだ原っぱがあって。(原っぱには昔畑だった名残りの肥溜めというものもあって、ウンの悪い子がたまに洗礼を受けていた。

脳のチューニング

はじめての学校は、戦場だ。 後年アルバムを広げて「カワイイ」とか「懐かしい」では言い尽くせない、生き残りをかけた世界だった(はずだ)。大人になりきった今、あの時の危うさを覚えている細胞は体内にもうひとかけらも残っていないけれど、少なくとも私にとってはそうだった。 守ってくれる親のいない、つるんでくれる友達もまだいない、はじめての世界。場所はブラジルのサントス。小学校1年から3年の中頃まで3年間通ったアメリカンスクールEscola Americana de Santosは幼

絶滅危惧種

朝いちばん、慣例の儀式があった。 親戚中の同じ年頃の孫達(上は小学生〜下は幼稚園児まで)がずらり畳に座って待っている。目の前のふすまがシズシズと観音開きに開くと、向こうの間にまるでお内裏様とお雛様のように(ずいぶん老けてはいるが)お祖父様とお祖母様が並んで座っていて、私達孫連中は、声を揃えて「おじーさま、おばーさま、おーはーよーございまーす。」 畳に頭を擦り付けてご挨拶するその時、両手の親指と人差し指で三角を作ってその中に鼻を入れなければならない。 そういう儀式。 私と

犬の話だけど犬の話じゃない話

一度だけ、短い間だったけど犬を飼ったことがある。子犬の時もらってきて、子犬のまま手放したから、記憶の中は今でも子犬のままだ。 名前はポンゴ。 ディズニー映画「101匹わんちゃん」の主人公の名前そのまんま。犬種もダルメシアン(もどきの雑種)。ねだってねだってねだり倒して飼ってもらった。あれほど何かが欲しかったことはなかったし、これからもないのではないか。心が震えるくらい、欲しかった子犬だった。 ポンゴがはじめて家にやってきた日の翌朝のことを覚えている。夜が明けるよりも、家族

カウボーイになりたかった

ビリーザキッド、ワイアットアープ、ドクホリディ、、西部劇小説を夢中になって読み漁っていたちょうどその頃、テレビではローハイドとかララミー牧場をやっていて、私はジェスに夢中だった。(今でも主題歌のイントロなら歌える) 疾走する馬から駅馬車に飛び移ったり、 岩陰に隠れてインディアンを待ち伏せしたり、 縦横無尽にアリゾナの平原を愛馬を股に挟んで駆け巡ったり、(本物のカウボーイは、馬を股ぐらに挟んで動かすのだ)10歳にして立派な脳内カウボーイだった。 インディアンは不当に悪者扱い

制服を着る

こんな私もかつて制服を着ていた。 通算して7年、幼稚園、中学、高校の時代に。 アルバムに残っている入学式の写真は、どれも「誇らしげ」に写っている。カメラの前でポーズをとっていた本人もさることながら、カメラを構えていた両親の誇らしさのほどはいかばかりか。 あれは何だったのだろう。 学生服を着ている自分と、着ていない(普段着の)自分。 あの違いは? 特に自覚無く、大人から言われるままに「着せられていた」はずなのに、子供ながら確かにそこにあった高揚感は?満足感、帰属感、安心感

目を覚ましたら、世界が変わっていた件

1963年11月22日金曜、ブラジル サントスの自宅。あの日、あの時間、私は昼寝から目を覚ましたばかりだった。 それが色なのか、ニオイなのか、わからなかったけれど、自分が全く違う空気に目を覚ましたことに気がついた。眠りにつく前と目覚めた後とで、世界は変わっていた。 何が起こったのかと大人達に聞いたら、ケネディという大統領が暗殺された、という答だった。あんなに不安そうな大人達を見たことはなかった。暗殺という言葉を聞いたのも、はじめてだった。 この地面の続きで何か大変

お雛様

母の手は、いつも何かを作っていた。 子供の頃、私たち姉妹のお出かけ服は全て母の手作りだったし、夢中になって遊んだリカちゃん人形の服、新聞紙入れや小物入れなど木切れで作る工作、毎年デザインを決めて200枚ほど作る手作りクリスマスカード、季節の梅仕事(梅干し、梅酒、梅シロップなど)やラッキョウ漬け、、 家族のために作る毎日の料理やヌカ漬けはもちろん、母の手はずっと休まず何かを作っていた。 中でも折り紙は母が特に根を詰めていたもののひとつだった。少女時代からの「千代紙コ

脳内8ミリ

6歳から9歳まで暮らしたブラジル・サントスの記憶は、アルバム2冊の白黒写真に残っている。これはそのアルバムの中には残っていない出来事の話だ。写真という形で残されていないのに、いや、だからこそ脳内で再生される時、鮮烈になる。昔の8ミリ映写機の音までカタカタ聞こえてくるような気がする。 それは両親と一緒に映画のロードショウを見に行った、その帰りの出来事。その日、どうしても見たい映画があったのだろう。(たぶん1962年公開「史上最大の作戦」The Longest Day)3歳の妹

次のドリルがあった日々

小学校1年から3年まで、ブラジルのサントスで日本語学校に行っていた。1年生から6年生まで生徒8人に先生1人。教えてくれていた遠藤先生は、日本から移住してきたもと小学校教師。学校と言っても、場所は先生のご自宅。授業は生徒ひとりひとりの理解力に合わせて、わからないところはトコトン時間をかけて教えてくれるという贅沢さ。3時になると先生が出してくれた手作りおやつも待ち遠しくって、私はその小さな学校へ行くのが毎日楽しくてたまらなかった。 私にとって、学校というものは大好きな(勉強の時

影の無いお友だち

ブラジルに行ったばかりのころ、私には友だちがいなかった。近所の子と遊ぶためのポルトガル語も、アメリカンスクールで勉強することになる英語もつたなかったからだ。 そんな私にまもなく特別な友だちができることになる。彼らはみんな架空のお友だちだったけど、6歳だった私は彼らのつくり出す世界にどんどん引き込まれていった。 それはDick and Jane、そして末っ子のSally。アメリカンスクールで渡された教科書の中に彼らは住んでいた。 驚天動地。 想像して欲しい。 1960年代

フロリアノ ペイショット ヌメロ100、 サントス、ブラジル

天井が抜けたみたいだった。言葉で言うなら、そんな感じ。 それまでの私は、フカフカの真綿にくるまれて鞘の中でじっと息を潜めているような子。滅菌空間で育てられた「空豆の子」。 それが、いきなりブラジルだ。 当時地球の裏側へはプロペラ機でアメリカ経由、たっぷり2日間はかかった記憶がある。 赤道直下の光と色、街に溢れるサンバのリズムと、香ばしいコーヒーの匂い(あの酸っぱ濃い香りを嗅ぐと、私の体は今でも時空を超えてサントスの街にワープしてしまう)、真っ二つに豪快に割って食べ

おじいちゃんが写したかったもの

祖父は写真に凝っていた。 昭和の初め、日本ではまだ珍しかったライカで撮った写真を自宅の暗室で現像するほどだった。唯一の趣味だったと思う。 決して饒舌とは言えなかったが、真面目で仕事一筋。そして筋金入りのマイホームパパだったと母から聞いている。毎日会社から一直線に帰宅。判で押したように定時に帰って、家族で食卓を囲んでいた。休日には当時庶民の憧れの的だったデパート、帰りは家族全員でお食事という「お出かけ」も欠かさなかったと。 祖父母にとって私の母は、結婚して10年以上待ち

モルフォ蝶に会いに

どうだい綺麗だろ、モルフォ蝶。 おじちゃん、私、これ飛んでるとこ見たよ。 おっ、すごいね、どこで。 ブラジルの公園で小さい頃。 木漏れ日が眩しい日曜日、のんびり日向ぼっこしてたら、いきなりみんな走り出したから、なんだなんだとついて行ったら、この蝶々だった。キラキラ光りながら飛んでいるのを、みんなで夢中になって追いかけて、まるで夢のなか歩いてるみたいだった。 そりゃあ、いいもの見たね。 ところで知ってるかい、モルフォ蝶のモルフォってモルヒネが語源だって。幻覚みたいに綺麗