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脳のチューニング

はじめての学校は、戦場だ。
後年アルバムを広げて「カワイイ」とか「懐かしい」では言い尽くせない、生き残りをかけた世界だった(はずだ)。大人になりきった今、あの時の危うさを覚えている細胞は体内にもうひとかけらも残っていないけれど、少なくとも私にとってはそうだった。

守ってくれる親のいない、つるんでくれる友達もまだいない、はじめての世界。場所はブラジルのサントス。小学校1年から3年の中頃まで3年間通ったアメリカンスクールEscola Americana de Santosは幼稚園から9年生(日本の中学校)まで全学年合わせても1枚の集合写真に収まるくらいの200人に満たない小さな学校だった。

生徒はアメリカやヨーロッパからの駐在員の子ども、全員白人。私たち日本人姉妹は、唯一のアジア人生徒だった。私たちから見ても彼らから見ても、お互いはじめて見る人種。

何より困ったのは「言葉」だ。子供たちの間で普段話されるのは、ポルトガル語。学校の授業で使われるのは、英語。もちろん教科書も全部英語。いきなり放り込まれた「肌の色も髪の色も目の色も違う」世界で手がかりは身振り手振り顔の表情しかなかった。

ある日、スージー(SusieはSusanの略称)と言う名前の女の子が、スージーという発音がポルトガル語のsujo、汚いと言う意味の言葉と同じだと言うだけで、小突き回され泣いているのを目撃した三つ編みの6歳は、肝に銘じた。

生き残らなくては。

物事の善悪とか、道徳心とか、協調性とか、生やさしいものではなく、野生の本能が私に聞いてきた。私が彼らにとって「異物」ではないと知らせるには?イジラレナイための居場所を確保するためには?答は教科書には載っていない。先生も教えてくれない。明日までの宿題より先に答をみつけなければ。

そうだ、言葉だ。言葉しかない。
とりあえず、英語を勉強するしかない。そうして勉強でいちばんになるしかない。それしか思いつかなかった。
(あの必死さがずっと続いていれば後年私の人生、別ものになったのにと時々思うくらいだ)

そうやって、小学校1年から3年までを突破した。なんとか生き延びることができた。ああ、英語で覚えたアメリカの国歌 national anthemを歌いきれた時の、あの誇らしさったら。

ただひとつ、今でもわからないことがある。

あの頃、私が憧れていた上級生(小学4年生)のことだ。Escola Americana de Santosでは、小学4年生になると子供たちはお互いに英語で話すようになっていた。それまで授業中だけ使っていた英語が日常生活、生徒同士の会話にまで使われるようになるのだ。全ての言語によるコミュニケーションが、それまでのポルトガル語から4年生になった途端、申し合わせたように英語に変わるのだ。誰に命令されたのでもなく。

私には、それがとんでもなく眩しかった。
ポルトガル語より英語の方がカッコイイなんて、誰も言っていないのに、自然にそうなっていることが不思議なだけでなく、たまらなく羨ましかった。

あれは一体なんだったのだろう。
脳がある言語を習得していく過程で(3年生から4年生)仲間同士のコミュニケーションも1つの言語に統一(チューニング)されるものなのか?ひとつの言語が選ばれるのか?その理由は? 同族と認識されるために?言語学者、脳科学者なら答がわかるだろうか?

4年生になる直前に日本に帰国してしまった私自身の脳は英語脳にチューニングされることはなかった。

あんなに憧れていたのに、、

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