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読書へのまなざし。

文章を読む。紙の本、電子書籍、noteであったり、何かしらのカタチあるものを。

noteに携わる方は、きっと文章が身近で、たくさんの文字を読み、たくさんの言葉と触れ合ってきたのだと思う。




私も、昔から文章を書くことが好きだ。書き始めたら最後、とうぶんは自分の世界に籠り、大好きなごはんもそっちのけで、ただただ書く時間と向き合う。

それなのに、だ。
私は本を読んでこなかった。

活字の本が並んでいる家に生まれなかった、という理由もあるし、本を買う習慣がなければ、近所に図書館すらなかったという見方もあるだろう。

明確な理由はわからない。
とにかく、本とは無縁の人生だった。

読むのは、もっぱら漫画。月イチで買ってもらえる少女コミックをなん度もなん度も開いては読み、ひとりでお芝居ができちゃうくらい、体内にセリフを流し込んできた。

きっと、文字には興味があったのだと思う。


本との出会い。
きっかけは、些細なこと。

高校2年生の夏休み。某大学の特別講義に参加をした。いくつかのコースから興味があるものを選べる、というものだった。

そこで、なぜか私は「哲学」を選んだ。

”選んだ”というより、締切間近で選択肢が残っておらず、”選ばざるを得なかった”ように記憶している。

案の定、講義の内容にはついていけず、ひとり睡魔との戦いを繰り広げていた。
なん度もいうが、私は本を読んでこなかった人間だ。無論「哲学」について何かを知っているわけでもなく、意見を述べられるわけでもない。ただ過ぎてゆく時間に耐えるのみ。

私がパスした質問はそのまま、隣のクラスの藤林くん(仮名)に回答権が回った。

彼は「待ってました。」と言わんばかりの口調で、巧みに言葉をならべ、ときには手を使い足を使い、しまいには踊り出すんじゃないかというくらいの勢いで、心の内に秘める言葉を惜しむことなく表現した。

「 ⚪︎△◻︎%・・・・ 」

「 %◻︎△⚪︎・・・・ 」

(※いち傍観者の人間は理解不能であったため、会話の内容は省略。)

覚えているのは、先生が藤林くんの回答に、「素晴らしい」と深く頷きながら言葉を発したこと。そして、両手をたたき、彼を称賛したこと。


「哲学」という、ひとつの分野を突き詰めた人たちだけが到達する世界、がそこにあった。ふたりだけの共通言語が生まれ、会話が成り立ち、それぞれの考えがカタチになる。

「かっこいい。」
ただただ、そう思った。

それは、偶然にもその場に出くわした自分が、無知であると気付き、革命的な憧れが芽生えるには、十分すぎる出来事だった。


その日以降、自分の中のまだ見ぬ自分が覚醒したかのように、本を読んだ。

文字通り、貪るように。必死で。

今まで本と触れ合ってこなかった時間を取り返すかのように、ひたすら文章を読み漁った。

まだまだ足りない、読んでも読んでも、追いつけない。

憧れの世界はまだずっとずっと先にある。



本を読む人を、私は尊敬する。

本を読んで、自身の中で噛み砕いて、新たな言葉になる。

同じ言葉でも、遣う人が違えば、違う意味にだってなりうる。

”同じ”なんてことは、あり得ないんじゃないかと思う。

本を読んだ人の数だけ、解釈が生まれるし、その後の物語が続いていく。

それがその人になって、人格になる。



私は、本を読む。

来る日も来る日も、読みたい文章と、出逢いたい言葉のために。

一期一会の出逢いもあれば、ずっと自分の心に残り続けていつしか自分の一部になる出逢いもある。

あえて、限定をしない。

色んな考えを収集して、ならべて、引き出しにしまう。

たまに開けるものもあれば、もう開けないものも、きっとある。

それは読む人にしかわからないこと。読んで読んで、選別に至る。数をこなして、またはお気に入りになん度も浸って。その共通認識にたどり着く。


自分が無知であることは自覚した。
無知だからこそ、追いかけ、知ることを求める。

終わりはない。
だからこそ、読書する人を私は尊敬する。


まだまだ足りない。
憧れの世界はまだずっと先にある。








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