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ペーパードール on 昭和

角田光代という人は、どうしてこうも「一介の」「しがない」「どこにでもいるような」女(とみなされる女)を巧みに描くのだろう。

角田光代著『笹の舟で海をわたる』(2014年 毎日新聞社刊)

主人公の左織は、義理の妹 風美子を頼りに思う反面、おそれに似た感情をいだいている。
折にふれて、風美子に自分の人生を操られているような気持ちが頭をもたげる。
山下達郎の「ペーパードール」さながら、いつか風美子の手のひらの中で、握りつぶされるのではないかという漠とした不安。

そんな左織の、「自分の人生を生きていない感」を敏感に嗅ぎとり、離れていく娘の百々子。百々子は左織への反感に比例するように、風美子に吸い寄せられていく。自分の人生も家族も、風美子に絡めとられていくのではないかと、左織は思う。

この小説は、戦中から平成に入った頃までの、長い期間を描いている。
主人公の左織は、今現在(平成28年)健在であれば80歳代半ばである。
その年代の人が生きた時代の空気感が、心理描写に絶妙に織り込まれている。
『巨人の星』のお京さんを彷彿とさせる、ミニスカート、パンタロン、アベック、ゴーゴー喫茶などの語句から、インベーダーゲーム、皇太子ご成婚まで、昭和の風物が適宜登場し、「あー、あったよねー」と懐かしい。

本書の帯にあるように、時代はまさに「激動の戦後」なのだが、左織の人生はかならずしも激動ではなく、淡々としている。
ただ、左織の記憶にはないのだが、「もしかしたら疎開時代に風美子にとんでもない仕打ちをしていたかもしれない、風美子はその仕返しに現れたのかもしれない」という疑心が通奏低音となっていて、サスペンスとして最後まで一気に読ませる。

美貌と処世術の持ち主風美子は、料理研究家のはしりであり、メディアへの露出も高い有名人であり、「何ものかになれた人」である。
そんな風美子に影響され、自分も何ものかになれるかもしれないと小説を書き始める左織の夫 温彦。そして40歳代半ばにして、「何ものにもなれないことは、べつに悪いことじゃない」と語る。
温彦が妻に「小説をやめた由」を告白するこの場面が、わたしには妙に胸キュンでありました。

角田光代という「何ものかになれた人」にこういうことを書かれると、なんだかなーという気持ちにもなるのであるが…。