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書くということ

書くということがいつか、趣味の領域を越えればいいと、漠然と思いながら過ごした深夜は数えきれない。

小さい頃から言葉に触れることが好きだった。

学校で配られた数ある中から1つ選んで書けばいい作文コンクールのリストの上から下まで全部出してみた夏休みや、ふと思い立って公募ガイドでエッセイコンテストを検索して、締め切り日が近い順から応募していた時期もあった。飽きたら読みかけの本を閉じて新しい本を開くように、次々と新しいブログを開いては好きなことを書き綴った。最近、そろそろ過去のアカウントは削除しようと思い昔のメールを漁って辿り着いたものの、痛いこと書いてるなあと一人で笑ってから、パスワードを思い出せず入力回数制限に引っかかったりしていたら、思い出を誰の手にも届かないところへ閉じ込めるのは思っていたより時間がかかることを知った。

投げた石の数の分母を考慮すれば大したことのない確率ではあるが、書き続けているうちに幾つかの石が的に当たるようになった。地方に住んでいた私にとって、毎年何かのコンクールの授賞式という用事が出来てちょっとした東京旅行に行けるのは大きなやりがいだったし、何より賞金の図書カードは当時のお小遣い生活に大きな臨時収入を与えた。実際に書くという行為はもちろん、自分の文章がインターネットの海の向こう側の誰かに読んでもらえることが嬉しくて、たまに「元気付けられた」なんてコメントをもらえば病みつきになって、埋もれていった。


「大人顔負けの文章を書くね」

私の書いた文章に対する大人達の評価は大抵そうだった。今昔書いた文章を読み返せば、そこら中に散りばめられた子供っぽさに全く大人の域に達しているとは思わないが、私は子供ながら、大人が好む子供の文章を何となく分かったような気でいた。

冒頭を会話文にすると読み手を引きつけるということを、確か小学生向けの作文の書き方の本で知った。

登場人物の細かい心情の表現、リアルな会話文、そこから生まれる心情の変化、心温まるエンディング。次第に求められているものを書くようになった。親切、感謝、家族、人権、自分を変えたエピソード。題材は様々だが、思い切って親切をしたのに感謝されなくて絶望した、なんてストーリーは作文コンクールにおいては求められていない。入賞するのは、誰かに親切にしてもらったことをきっかけに自分も親切をするようになった、そんなストーリーだ。

いつの間にか、アイディアの根本や登場人物の「起承」は実体験であっても、その後のきっかけと心温まるエンディングの「転結」をうまく作り上げることが得意になった。私が実際に起こってほしいと願った話ではない。こういうのが好きなんでしょう?という勝手な想像で、言葉を組み合わせていた。


そんな創造世界に浸っているうちに、現実世界のスピードに追いつけなくなってきて、高校生になった頃には書くことから離れた。

本屋や図書館に入り浸っていた時間は部活やサークルの時間に、パソコンで文章を打っていた時間はSNSで頻繁に会っているはずの友達の生活をチェックする時間に変わった。

書くことをやめて、周りの友達と同じように始めたSNSでも、私は周りの目を気にしていた。

ツイッターは本音をすぐに呟ける。

そんなわけがなかった。

ハッピーエンドを作る必要はないにしろ、他人の目を気にして生きる大多数の人間にとって、SNSも思ったことを何でも表現できる場所ではない。それまでブログや作文コンクールを通して自分の文章を読んでくれていたのはどこの誰かよく知らない大人がほとんどだったけれど、ツイッターやインスタグラムとなれば読み手は明日も学校で顔を合わせる友達だ。

たったの140文字でさえ、自分の言葉をどう受け取られるかが不安だった。思いのまま発信した言葉が、思いもよらないところで誰かに武器となって刺さっている可能性は大いにあるし、発信した側がそれに気づくことは難しい。

だから、万人受けするものと特定の人に発信したいものに分類し、それに合わせて情報を受け取る側のフォロワーも分類し、一人で複数のアカウントを操る。そんな器用なことをずっと続けられるわけもなく、次第に線引きの基準がわからなくなり、疲れてもうやめようと思うのの繰り返し。こんな経験をしたことがあるのは、きっと私だけではない。


他人が自分の言葉を選んでいるような気がした。同時に、知らない人の文章を読むことにあまり興味がなくなった。

筆者の考えと合っているものを選びなさいという問題の選択肢が全て正解に見えた受験期、模試の結果の蜘蛛の巣のようなグラフはいつだって国語の部分が大きく凹んでいた。自分で書いた文章が自分で考えたものなのかもよく分からないのに、他人の文章の裏にある考えなんか分かるわけがないと思ったし、分からなくてもいいと思った。大好きだった小説家が入試の出典の定番で、繰り返し読んだはずの小説が抜粋された問題を間違えては、解答解説を読むのをやめた。


本屋と図書館からは足が遠のき、いわゆる「活字離れ」の現代っ子として数年が過ぎて、今もう一度書きたいと思うようになった理由が2つある。

1つ目は、単純に書くという行為が恋しくなったのだと思う。
2年間の海外留学に加えて、日本の大学でもほぼ全ての授業が英語で行われる学部に所属していたため、ここ数年は出会う文章のうち英語が占める割合が大きかった。ネイティブレベルまでとは言わずとも2つの言語を操れるようになって、考えの幅は今まで届かなかった領域まで広がった。でも、日本語にしかない数ある表現の中からぴったり合う言葉を選んだり、自由自在に組み合わせたり削ったり足したりする行為が、恋しかった。

2つ目は、人の目を気にして言葉を選ぶ自分を超えるため。
インスタグラムに投稿する写真には全てフィルターをかけている。彩度、明るさ、コントラスト、色を加減すれば曇りの日に撮った写真でも晴れの日に撮った写真でもだいたい同じように見えるから加工は面白い。
だけど、わたしは自分の文章に加工をかけることから一旦卒業したいと思っている。

いつの間にか「大人顔負け」は通用しない「大人」になってしまったけれど、みんなに上手いと褒めてもらえるような話を書くのではなく、恥ずかしくても、悲しくても、自分の言葉で自分の話を書いてみたい。それを誰かが面白いと言ってくれたら、この上ない幸せである。

最後に。いつか書くことで人生が広がればいいなと思う。
まだまだスタート地点。才能があるかないかなんて分からないから、やってみてから考えよう。
夢を夢で終わらせたくない、と言うのを聞く。
まずは夢が見えるまで、瞼を閉じることから始めようか。

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