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若者言葉に、愛を込めて。

「まじ?」を「ま?」と略して言われるのが、少し苦手だった。

ひらがなたった一文字のくせに立派な意味を持ち備え、自分の足で歩き出した頃から、あいつとは相容れない。特に2017年にギャル流行語大賞に選ばれてからは、頻繁に会話の中に飛び込んできて暴れては満足したら去っていく、有名人気取りだ。

だって、「ま?」と言われた時の返し方は、めちゃくちゃ難しい。

会話が盛り上がってテンポ良く進んでいる途中に「ま?」と挟まれて、こちらも「ま!」と返せばおうむ返しでアホみたいだし、なんだか急ブレーキをかけるようだ。逆に何も気にしていないかのように「そうそう、それでね...」と続ければ、それもそれで「ま?」に込められた相手の熱量を、受け留め切れていない気がした。

「まざい?」(同義:まじ)みたいなのはもはや原型を留めていないので笑って流せたのだが、俗に言う若者言葉に多い略語には、なぜだか適応するのに時間がかかった。若者のくせに。捻くれた若者である。

他にも、「り(了解)」が流行り出した頃、「じゃあ〇〇駅に〇時で!」の返信を「り」だけで済まされたら、適当だな分かってんのか?と思った。「ちな(ちなみに)」とか「あね(ああなるほどね)」も、自分では使わないかなと思ったし、「とりま」の原型が「とりあえず、まあ」だと知った時は、響の良さのために一度付けられては削られる「まあ」って不憫だよなと、しょうもない理由をつけて抵抗していた。

シンガポール人は何かと文末に意味のないla(ラ)をつけたがるのに、日本人はどうしてこうも数文字を略して生き急ぐのか。
どうやらこの傾向は最近の若者だけに言えることではないらしい。なんと平安時代から清少納言が「と抜き言葉」はいとわろし。と当時の若者の言葉の乱れを嘆いていたそうだから、今更わたしが解明する謎ではないことは重々承知しているけれど、ちょっとだけ気になる。

どうしてわたしたちは、次々と生まれる新しい言葉にときめいて、嘆いて、虜になるのか。

・・・

先日、2020年の秋の暮れに「ねえ、NiziUってなに…?」と聞いてくるくらいには流行りに疎い母親から、ラインのやりとりの中で「ま?」というスタンプが送られてきた。

思わず「それどういう意味か知ってる?」と聞いてしまった。
「驚いた時に使うんじゃないの?」
「まあそうだけど。まじ?って意味だよ」
「そうだろうなと思ってたよ」
予期せぬ正答に、聞いた本人のわたしが恥ずかしくなって、「大正解〜!」というスタンプだけ送っておいた。

「ま?」と「NiziU」。

日常的に大量の若者と触れ合う機会のない母の耳にどちらの単語が多く入ってくるかといえば、最近は「NiziU」の圧勝ような気がしたが、「ま?」の方が一度聞いてしまえば頭に残るものなのだろうか。

そういえば、「ワンチャンあり(もしかしたらいける、上手くいく)」のことを「ワンあり」と言う友人に初めて出会った時も、それどう言う意味?とは思わなかった。例文付きの単語帳で勉強したわけでもないのに、一度聞けば、すん、と頭に入ってきてなんとなく意味を想像できるし、極端に間違った使い方もしない。

わたしたちは、どんな言葉も切り離せないのだと思う。

・・・

こんなに斜に構えた書き方をしておいて、思い返せばわたしにも「映えてる~おしゃ~」とお洒落なカフェで何枚もお皿の配置を変えては写真を撮り、「いいしゃ(良い写真)〜、めっちゃ良き〜」とその写真の加工に勤しんで、「可愛いは、最強。」とかいうテロップが流れそうな日々を送っていた時期があった。

大学で入会したサークルに写真がとても上手い先輩がいて、その先輩を中心にお洒落なカフェを巡る「おしゃ活」の文化が浸透していた。最初は慣れなかったわたしと同期たちの間でも、数か月すれば、「おしゃ」であることは正義だ。

最強にキラキラしていて楽しい日々だった。もちろん今でも自分の好きな雰囲気のカフェをインスタグラムで探したり、そこで過ごす時間は心が踊る。それでもわたしにとって「おしゃ」で「映え」だった時代は、間違いなく大学1、2年の頃だった。数年間で、財力もiPhoneカメラの画質も加工アプリの性能も格段に上がり、ハイレベルな料理をハイレベルな技術で収められるようになったはずなのに、あの頃を超える「いいしゃ」は、もう撮れないような気がしていた。

「いいしゃ」に纏わる忘れられないエピソードは、つい最近電話をしていた相手から写真が送られてきて、何も考えずに「めっちゃいいしゃ〜」と言った時、「え、今電波悪い?写真のしゃ、で止まってたけど?」と聞かれたこと。死ぬほど恥ずかしい思いをした。

あれはわたしが属していたコミュニティ内だけの共通言語だったんだと気付くと同時に、これから歳を重ねる度に、少しずつ、手放していくであろう言葉たちが、急に愛おしくなる。

・・・

もう自分では操れない言葉が沢山ある。

昨夏帰省をした時に、地元の友人と中学生の頃お互いに送り合っていたメールを掘り返して笑い転げるという遊びをした。本文よりも手始めに、同級生のメールアドレスが漏れ無く全て傑作で5分は笑えるので(わたしの同級生が誰か読んでくれてたらごめんね、笑)データが残っている人は是非やってみてほしい。

直視すると顔から火が出そうなので、目を細めながら覗いてみる。
Re:Re:Re:Re:Re: が永遠と続く長いタイトルのメールを1通読んだだけでわかる。

中学生のわたしは、若者言葉を自由自在に操っていた。

言葉を略すことに抵抗が、という大人ぶった冒頭部分は、一旦忘れてほしい。関西弁の話し言葉、おそらく同級生の間で流行っていた言い回し、基本的にテンションの高い文末に、そこ使い方合ってんのか?と思うくらい頻繁に記号がついている。←

外部からの影響をほとんど受けない、小さな地元の中で習得した言葉。それ以外は、アメーバブログ、ホームページ、デコログ、FC2など、TwitterやInstagramが一世を風靡する前に、一通り誘惑されたインターネットの海で学んだ言葉たち。

1通1通に、今では絶対に作れない世界が広がっていた。

言葉だけじゃない。カタカナを半角にしてみたり、文字のサイズと色を変えてみたり、ダウンロードしたお気に入りの絵文字を加えて、詰めれるだけの可愛さを詰めて、作り上げられた世界だった。

中学生の自分が選んだ言葉で修飾された文章は、むず痒いのに、たまらなく可愛い。

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「エモい」コンテンツが流行っている。

少し彩度を落として青色と緑色を足し、粒子を散りばめた、昨日の写真でもずいぶん前の懐かしい日々を思い出させるような加工が流行っている。

香水で誰かを思い出したり、もっと違う設定で出会える世界線を選べたら良かったと願ったり、誰にでもある戻れない過去を思い出させるような曲が流行っている。

みんな、永久性のない儚い時間を懐かしんでいたいのだ。

若者言葉だって一緒だ。

5年後には、今流行っている言葉は「エモく」なる。

ああこんなこと言ってたわ〜と、それを使って話していた相手やエピソードが一気に脳内に流れ込むだろう。

歳を重ねるたびに新しい言葉の適応範囲と適応スピードが薄れ、大人たちは流行りの言葉を使う若者に乱れている、みっともないと嘆くけれど、どんなおじさんおばさんにだって、限られた相手に、限られた時期にしか使えなかった、「エモい」言葉があるのだと思う。

すでに「エモい」言葉と、これから「エモく」なる言葉に、愛を込めて。
1つ1つ大切に使いたい。

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