アメリカ人のハイヒール #2

「So basically, I’m homeless and jobless」

晴々しい自己紹介。言葉に似合わない、朗らかな表情。

まあ言うたらホームレスで無職みたいなもんやけど、自分はどうなん?という目でわたしを見ている。

「いや、え、もうわたしの番?」

日本人は自己紹介で所属や肩書きから言いがちだけど、欧米ではまず自分がどういう人間かを話すのが基本だというのを、どこかで読んだ。嘘なんじゃないか?と思い出せない筆者に問いかける。だって、この人は所属と肩書きの順番だけは守って伝えて、半ば強引的にわたしに会話のボールを渡してきた。

「わたしはまだ大学生。3月に卒業するの」

「へえ、何を勉強してるの?」

「んー、今は、広告とか」

アイザックの声は、6月の夜の気温にちょうど良い。図形で例えるとしたら、楕円形みたいな。角がないけれど、円のように整ってはいない。

「へえ」

ほとんど興味のなさそうな相打ちが、少し遠くの大通りを流れる車の音に混ざって消えていく。

わたしは自己紹介が怖い。ずっと昔から。だって、奇想天外な趣味や特技も、わたしを説明するのにぴったりな言葉も、格好良い座右の銘も、持ち合わせていない。毎回自己紹介を求められる度に、頭の中にある「自己紹介用」という引き出しを乱暴に開けて、目についたそれっぽい言葉を適当に選んでいる気がする。急いでいる朝に慌てて引き出しから引っ張り出した服のコーディネートを家を出た瞬間に後悔するみたいに、その言葉を口に出した瞬間、自分を纏っている修飾語の薄っぺらさに、立っていられなくて消えてしまいそうになる。所属と肩書きのような、絶対に間違いのない事実にさらっと触れるくらいの自己紹介が、わたしには合っていると思う。

「てかさ、何しに東京に来たの?」

受け取ったボールをなるべく早く、投げ返してしまいたかった。

「この大都市の中に埋もれて、一度暮らしてみたかったんだ」

「それだけで、3ヶ月も?」

「ああ、本当にそれだけだよ」

角を曲がると、隅田川が見えた。川向こうで蒼白い光を放つのは、スカイツリー。東京タワーの方が、なんだか過去に思い馳せるような温かみがあって好きだけど、こうして間近で見るスカイツリーの凛とした表情には、流石です、と言いたくなる。自分が東京を象徴しているのだと叫び、まだ少しでも高くなろうとしているみたいだ。

 。。。

アイザックは、ハワイからの宿泊客だった。歳は30。Danroでは3ヶ月も泊まっている長期滞在者はかなり珍しいはずなのに、あのラーメンぶち撒け事件の起こった数日前まで、わたしは彼のことをあまり認識していなかった。長期滞在者は特に、ホステルでもまるで自宅のように振る舞い、同じく長期滞在の仲間やスタッフとまで家族のような距離感で接してくる人が多い中、余程の人見知りで一部のスタッフとしか交流がなかったのだろうか。ああ、言われてみればこんな感じの人を何度かカフェスペースで見かけたかもしれない、と微かな記憶を辿ってみるけれど、浮かび上がる人の影は一向にくっきりとしない。

床に溢れたラーメンの汁を一緒に掃除するという異例の初対面後、出勤の度に彼が少しずつ話しかけてくれるようになっていることを、わたしは確かに嬉しく思っていた。話しかけるといっても、アイザックは自分の話をほとんどしない。「今日の隣のパン屋のおじさん、シャツがちょっとダサかったね」とか、「昨日から5階に泊まっている人のいびきがうるさい」とか、そんなどうでもいいことを、受付カウンターにわたしを見かけるとふらっと寄って報告するのだ。3ヶ月間も日本で暮らすことを決めたこの人は、日本の文化にも食にも大して興味はないみたいで、夜になると共有キッチンでやれ餃子パーティーだタコ焼きパーティーだと盛り上がる他のゲストたちの横で、ほとんどどこの国でも作れそうな野菜と鶏肉の炒め物を作っていた。好きな日本語は「イモジョウチュウ」。あとは、最近誰かが教えたらしい「チョットメンドクサイネ」というフレーズを、何かにつけて使って周囲を笑わせていた。

今日は突然「コンビニ行くから、オススメのアイス教えてよ」と休憩時間に連れ出されて、「風が気持ち良いから」というどこにも間違いのない理由で、遠回りして隅田川沿いを歩いて帰ることにした。

2つ買ってくれると言うから、オススメのアイスは他のやつより少し高くて普段はあまり手を出さない、金のパッケージの「プレミアムバニラソフト」にしておいた。

舌の上で少し硬めの白いクリームを丁寧に溶かす。顔を撫でる風までが、とろりと少し甘くなった。

「それで、今のところ東京は好きなの?」

本当は、もっと他に気になることがあったような気もする。ハワイでは何をしていたの、家族はいるの、いつまで日本にいて、これから何をするつもりなの。数分の散歩とは言えど、ホステルの外で彼と話すのは初めてだったし、お互いのことをもう少し知れるチャンスだと思って「わたしたちってお互いのこと知らないよね」と口火を切ってみたのに、どうやら無職でホームレスだという回答より深くは、掘らせてくれなそうだ。ソフトクリームを唇の端に残す横顔はとても30歳には見えなくて、もしかしたらこの人も自己紹介が苦手なのかもしれない、と思う。

「ハワイと違って、ミステリアスで、雑多なところが居心地が良くて好きかな」

「あ。分かる気がする」

それで、今のところ東京は好きなの?

本当は分かっている。ミステリアスで雑多なこの大都市が、好きか嫌いかで表せるほど簡単でないことくらい。

少し前に同じような質問をされたから、この人ならどう答えるだろうと気になったのだ。

春休みに実家に帰省した時、父が「それで東京は好きになったのか?」と聞いてきた。用意されていたようだったけれど、わざと思い出したように投げかけられたその質問に、わたしは「え〜まだわからないな〜」と曖昧に返して、「あ!この漢字なんだっけ!」とテレビのクイズ番組に集中しているふりをした。

今年で上京して4年目になる。上京しなかったら経験しなかった苦労は沢山ある。満員電車とか、人混みとか、新宿駅の出口がいつまでたっても覚えられないとか、自炊とか洗濯とか、そういうことじゃなくてもっと、うまく言えないけど、感情的な部分で。

「こんなこと言うの恥ずかしいけどさ、東京に来て4年目になっても、ここはハイヒールでしか歩けない街だと思うのね」

あの時父に言おうとして辞めた言葉。何故かアイザックになら言えた。

「ハイヒールを履いて、ちゃんと爪の先まで綺麗に色を塗って、精一杯装った自分しか歩けない街」

「それって恥ずかしいことなの?」

「え?」

横を向くと、アイザックの目線がストレートに突き刺さり、思わず歩くスピードを緩めそうだった。恥ずかしいと前置きをしたことは、無意識だった。自分が恥ずかしいと思っていることに、初めて気が付いた。

アイザックの頭の中には、「適当に相手を満足させるために選ぶそれっぽい言葉」という引き出しがない。薄っぺらい修飾語は決して纏わないし、彼が選ぶ言葉一つ一つは、とてもシンプルで真っ直ぐ相手に届く。

「なんか、街に完全に溶け込めていない気がしない?ハイヒールって、サンダルとかスニーカーと比べると、自分の素を見せてないみたいで」

少し間があって、アイザックが口を開いた。

「この間、靴教室でハイヒールについて学んだことだけど、ハイヒールは昔から、脚を美しく見せるために履かれてきたものだ」

アイザックはホステルの近くで週末に開催されている靴教室に通っていた。優しそうな雰囲気の女性がDanroのカフェに遊びに来ていて、教室の先生だと紹介されたことがある。

「既に持っているものを美しく見せるため。自分の弱い部分を隠して強さを装うものじゃない。それに、もし芽衣にとって東京という舞台が自分より高いところにあると見えるなら、同じ目線の高さで歩けるまで芽衣を叩き上げてくれたのが、ハイヒールなんじゃないかな。だから、それは恥ずかしいことじゃない、むしろかっこいいと思う」

なんとなく分かる。なんでアイザックが長い間わたしに気づかれず、Danroの生活に溶け込んでいたのか。
ハワイの静かな田舎からこの眠らない大都市にやってきて、すぐに埋もれていけるのか。
チョットメンドクサイことと興味のないことは寄せ付けず、他人に多くを語らず、でも必要な時には適切な言葉で人を持ち上げられるのか。

「ハワイに帰ったら、ビーサンばかりを履くと思う。他の人がみんなそうしているようにね。でもそれは、素を見せているとか、気を許しているからとか、そういうわけじゃない。ビーチにビーチサンダルが似合うように、東京にはハイヒールが似合うのかもしれない。似合うものを履いていた方が、人は躓かずに綺麗に歩ける」

返す言葉が見つからなくて、コツコツと踵が地面を叩くリズムだけが夜の道に刻まれていく。

誰かに「どこでも生きていけそうだよね」と言われる度に、そんなことないよと笑って力を入れていた足の指先。ちょっと外から刺激をすれば、挫けてしまいそうな足首。

わたしは自分が思っていたより綺麗に歩けているのかもしれないと思うと、目から零れ落ちた一滴が、頬を伝った。

「あ、やばい、休憩時間終わるよね?走ろう」

わたしが何かを言う前に、既に走り出していたのはアイザックだった。

どんどん遠ざかっていく長髪の後ろ姿を追いかけるように走った。地面を蹴って空中にふわりと浮いた踵が、いつもより軽い。溶けたアイスが付いた指で服を触らないように気をつけながら腕を振る。

わたしは、この街と戦いたいんじゃない。
似合っていたいんだ。

夜の東京を駆けてゆける。
8cmヒールのサンダルで。

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