Naked Desire〜姫君たちの野望

第一章 心の壁−32

クラウスは、のそのそと立ち上がると、右手に汚れた布を掴んだ。
休憩室内のシンクスペースに移動すると、蛇口からぬるま湯を出し、ダスターを洗う。
手早く汚れを落とすと、サニタリー溶剤にダスターを浸し、再びぬるま湯ですすぐ。
ダスターを折りたたみ、テーブルについていた食べかすや水滴を丁寧に拭き取る。
「こんなもんだろ」
クラウスはダスターを丁寧にたたんでテーブルの隅に置くと、先ほどまで座っていた椅子に、どっかりと腰を下ろした。
「おっと、忘れていた」
クラウスは手を洗うのを忘れることに気がつくと、すっくと立ち上がり、そそくさとシンクスペースで手洗いをした。タウパーで手を拭き取り、みたび椅子に腰掛ける。
(さて、食べるとするか)
彼がフォークを手に取り、ローストビーフとサラダを口に入れようとした瞬間
「お疲れ様でーす」
数人の女性店員が彼の近くを通りかかり、挨拶をする。だがその視線は、彼の方には向いていない。クラウスは挨拶を無視し、肉と野菜を黙々と頬張る。
「お先に失礼しまーす」
女子の集団の中から別の声があがり、「バタン」という音と共にドアが閉まるのと、クラウスの口から舌打ちの音が出たのは同時だった。
クラウスに向けられ女子の視線が、冷ややかに感じられたのは、彼の被害妄想ではない。学生時代と同様、彼はここでも空気のような存在であり、彼と仲良く会話する、奇特な人間はほとんどいない。もっとも当人は「生活費を得る手段」と割り切っているので、あれこれ話しかける人間は目障りだと思っているのだが。
(挨拶なんて、どうせお義理だ)と、クラウスは心の中で毒づきながら、自分のカバンの中から、飲み物が入った水筒を取り出す。
「あの娘たち、本当に失礼ねえ。あなた、一生懸命仕事をしているのに、寄ると触るとあなたをバカにして」
飲み物を一口含み、フォークで肉を一切れ刺した瞬間、彼の脳裏には、何かと世話を焼いてくれた女性店員の声が、彼の耳に鮮やかに蘇る。
声の主はアルマ・ランペルツ。何かにつけて彼のことを目にかけ、世話を焼いてくれた、数少ない女性店員だった。
容姿はお世辞にも美人とは言い難く、体型もやや太めだったが、職務遂行能力は高く、裏表のない性格の持ち主だった。それ故社員やアワリーマネジャーからなにかと頼りにされ、アルバイトの信頼も厚かった。社員の間では「俺たちのいうことはまるで聞かないのに、アルマさんのいうことはみな素直に耳を傾ける」というぼやき声がたえなかったほどである。
しかしそんな彼女も、1年半前に赴任したラッシャーと衝突を繰り返した。アルマを疎ましく思ったラッシャーは、理由をつけては彼女のシフトを削り、事あるごとにネチネチと嫌みを言い続けた。

「クラウス、あたしゃこの店をやめることにしたよ」
アルマがクラウスに、自分の退職を打ち明けたのは、休憩室で彼と休憩時間を過ごしていた、昨年の11月下旬だった。
その瞬間、クラウスの頭は真っ白になった。部屋は暖房が入っているはずなのに、部屋の空気は、冷蔵庫のように冷たかったのを覚えている。窓に目を向けると、小雪がちらついていた。どうりで寒いはずだと、クラウスは自分を無理矢理納得させる。
店にとって最大のかき入れ時であるクリスマスまで、あと一ヶ月もない。そんな時期に、アルマみたいな経験豊富な店員が消えるのは、店にとって最大の打撃になる。そう思ったクラウスは、必死になってアルマを説得にかかる。
「何ですかいきなり? クリスマスが近いこの時期に、悪い冗談はやめてください」
「冗談でこんなこと言えるもんかい」憮然とした表情で、クラウスに返事するアルマ。
「いったい、何があったっていうんです?」
「なにがあったもクソもあるもんかい! あのラッシャーとかいうヤツのもとで働くなんて、あたしゃ金輪際ごめんだね。もう付き合いきれないわ」
「俺だって、あんなやつと一緒に働きたくありませんよ」クラウスがそう返すと
「アンタもそう思っているのなら、今すぐここをやめちまいな! あたしみたいな太ったババァと違ってまだ若いんだし、ここよりもっとマシな働き口なんかたくさんあるだろうさ!」
アルマは一気にまくし立てると、コップのコーヒーをグビッグビッと一気飲みした。
「ああ、このコーヒーまずいねぇ」
「お言葉ですが、今のご時世で、いい条件の職にありつける学生は、ほとんどグランゼコールの学生なんですよ」
「グラン……なんだって?」きょとんとした表情で、クラウスに尋ねるアルマ。
「グランゼコール。大学よりも高度な専門教育をする学校ですよ」
「ごめんよクラウス。あたしゃ学がないもんで、こういうのはとんと疎くってね。お前さん、大学生だよね。卒業したら、グランゼコールに行くんでしょ」

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