Naked Desire〜姫君たちの野望

第一章 心の壁−35

「ハッハッハッハッ。エルヴィラ殿下、それは災難でしたなあ」
その男はコーヒーを一口飲み下すと、声をあげながらも、屈託のない笑みを浮かべた。
「笑い事じゃありませんよ、アダルベルト事務局長。一歩間違えていたら、私は殺されていたのかも知れないのですよ」
私は、正面に座っている男性に抗議すると、彼は即座に「おおこわ、そんなに怒らなくても」と、小声で呟いた。
男性の名前はマルティン・ルーサー・アダルベルト。枢密院事務局のトップである事務局長だ。私は彼の呟きを聞き流しながら、腕時計をチラリと見た。13時45分。会議の時間まで、あと15分ある。私は執務室の窓辺に立ちながら、今日の出来事を思い返していた。

私が屋敷を出たのは、朝8時20分頃だ。そこでオルガとカフェ・ルーエでだべり、9時15分に執務を開始。12時までに書類の決裁を終え、昼休憩を挟んで、14時から会議に臨む……はずだった。
ところがカフェ・ルーエで警察の事情聴取を受けたために、私の今日の予定は、大幅に狂ってしまった。
事情聴取が終わり、現皇帝陛下の住居にして、私の執務室があるオクアム・オクリローサム宮殿に入ったのは11時過ぎ。執務机に設置している「Stemac」と呼ばれる、携帯立体通信装置を起動させ、パスワードを打ち込んでデーターベース(DB)にアクセスすると、未決済のデータ数が3ケタを突破していた。一通り目を通し、どうしても今日中に決済が必要なものを優先したが、それでも未決済データの数字は減らない。
一息入れようと椅子に座ったまま、両腕を頭の上に上げた格好で背伸びをすると、視線を執務室内の壁にむける。壁に掛かったデジタル時計は、13時を過ぎたことを示していた。
「昼ご飯持ってきたわよ」
フリーダが棘を含んだ声を発しながら、サンドウィッチとティーカップをのせたトレーを、私の部屋に運んでくる。彼女の後からついてくる女性は、私付きの筆頭女官であるカタリナ・アネット・メルツェーデス・ミホ・フォン・アブドゥヴァリエヴァ、通称アネット。
彼女は「まーったく、あなたほど世話の焼ける姫君もいないわ」とかぶつくさ言いながら、執務室に入り、ドアを閉めた。眉間にはしわが寄り、ブルーの瞳は、氷のように冷たい。ああ、何だってこんな状況で、こんな厄介な女がやってくるのさと、私は心の中で毒づいた。
フリーダの表情は、まだ厳しいままだ。彼女は無言のままトレーを、執務室にあるテーブルに静かに置いた。本当はテーブルに叩きつけたいが、後片付けが面倒くさいから我慢しているのだ、という態度が見え見えだ。皿とカップは3つあるから、二人もここで食事するつもりだろう。
「二人とも、まだ食べてなかったの?」と、私が尋ねると、「見りゃわかるでしょ?」と、アネットが突っかかる口調で返す。主人に向かって、その態度は何だ? といいたいのを、私はグッとこらえる。
「で、書類の決済はどこまで片づいた?」しかめっ面で、フリーダが尋ねる。
「見ての通りよ」私はStemacのDBに表示された未決済の数字を、フリーダに見せた。
今朝の騒動の影響で、データの仕分けと決済を、同時に行わなければならない羽目になった。だがそのことを2人にぼやいたところで、彼女達は私に決して同情しないだろう。
未決済データの数字は、決済済みのそれよりも5倍以上はある。今の作業ペースでは、徹夜作業になるのは確実だ。
案の定、フリーダは私を上目遣いで見ると「ま、がんばってね。私は手伝えないから」と、冷ややかな口調で言い放った。彼女の様子を見たアネットも、険のある視線で、コクコクとうなづく。自業自得とはいえ、ここまで露骨に嫌悪感を示されると、皇女としての私の立場は丸潰れだ。
「あなたに言われなくても、徹夜してでも私が全部片づけるわよ。というより、DBに不正アクセスしたらどうなるか、二人ともわかってるよね? あんた達、わざわざ私に嫌みをいいにこの部屋に来たの?」
私はそう言いながら視線を下げ、両手人差し指でこめかみを押さえる。
「文句を言うのは勝手だけど、今朝のことは、両陛下のお耳にも届いているからね。会議の後、あなたにご下問したいそうだから、覚悟しておきなさい」
「ちょっと待ってよ」私は椅子から立ち上がって叫んだ。「まさか、FGIKF(王室平和秘密情報調査室)以外の諜報機関にもこの事を……」
「知らせたに決まっているじゃない。隠し通せるとでも思っているの?」
私の発言を遮って返答したフリーダは、小声で「アホかアンタは?」と呟いた。
「適当にごまかしておけばいいじゃない」私の発言に、即座に反応したのはアネットだ。
「あのね、マリナ」ひんやりとしたその口ぶりには、「正しいのはフリーダだ」いわんばかりである。

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