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#18 英字新聞には戦車の写真

91年卒業旅行に行きたいと思っていた。
そして、それは独りで行きたかった。
初めての海外旅行が3人だったが、10日を過ぎたあたりから顔も合わせるのが嫌になっていたからだ。

そして、生きているうちに崩れるはずがないと思われていた、ベルリンの壁が崩壊した。
東欧に自由化の波が訪れていた。
この目で、みてみたいと思った。
ポーランド、ルーマニア、ユーゴスラビア、ハンガリー
日本でビザを取る時間がなかったわけではないが、オーストリアのウィーンでビザが取れると地球の歩き方に書いてあったので、オーストリアのウィーンで行きたい場所のビザを取ることにした。
きっと、結果的にその判断は間違いでなかった。

ウィーンへは、当時もすごく安いので有名なソビエトのアエロフロートを使った。
その後、何度かアエロフロートを使うことがあったが、少なくとも90年代はモスクワの空港は電力を抑えるためか非常に照明が暗く、不案内なためトランジットの日本人はもれることなく不安でうろうろしている。
私を含めてどちらに行っていいかわからない。
トランジットホテルに連れていかれるはずであるが、全くもってわからない。
ようやく案内者が来てバスにのりこみ、郊外へとバスは走った。
バスがホテルに到着すると、モスクワのツアーに一人2000円で参加できる。
そして赤の広場に降りたりすることができた。
赤の広場ではマトリーシュカを売っている土産物売りが声をかけてくることはあった。
テレビの世界でしかみたことのない赤の広場に降りれたことだけで感慨深いものがあった。

そして、次の日私はこのホテルで最大のミスを犯してしまう。
コンパクトカメラをホテルに置き忘れたもしくは、落としたのかわからないが、ウィーンへ行くための飛行機を待つ空港で気づいた。
焦って、空港職員に助けを求めた。探してくれたかどうかわからないが、とにかくカメラは出てこなかった。
旅の最初にカメラなくすって。。。
あーもう!!
全く別の日本人グループの方が、ヨーロッパにも写ルンですがあるはずと教えてくれた。
もうどこで入手したか忘れたが写ルンですを入手した。


そして飛行機に搭乗して、何気に英字新聞を手に取ってぱらぱらめくる。
そんなに難しい英語は読めないのだが、
ユーゴスラビアの記事というのはわかった。そして戦車が写っていた。
これはどういうことかわからなかったが、のちにそれはあの長年にわたるユーゴスラビアの悲劇的な内戦のはじまりだった。
とにかく、その戦車の写真は気になっていて、ユーゴスラビアへ行かない方がいいのだろうと思った。
後に、ブダペストの同じ民宿というか歯医者にあるような寝台の横に無理やりスペースを作ったような宿で日本人の学生2人組にであう。彼らは、ユーゴスラビアにその内戦のさなか戦車を見たが、その後大したことはなかったと言っていた。
彼らの言うことを真に受けてユーゴスラビアに行っていれば、今書いている記事もなかったかもしれない。
このあとウィーンで何人かの日本人観光客から東欧の信じがたい話を聞くこととなっ

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