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人の「仮説」はものの見方

まだエアコンが「ぜいたく品」だったころ、生活保護を受けている人が夏の暑さで亡くなってしまった事件があった。テレビの報道では、「生活保護の人が可哀想だ」「この暑さの中、どうしてエアコンを許可しなかったのか」と、生活保護者をかばう声が飛び交う。

私もそんなテレビの声を受け、その通りだと思った。実際に人が亡くなっているし、暑いんだからエアコンくらい使わせてあげたらよかったのに、どうして"保護"の制度があるのに助けないのだろう、と。

生活保護を受けている人は所有してはいけないもの、いわゆる「ぜいたく品」が決まっている。扇風機やうちわでも十分過ごせてきた時代にエアコンは「ぜいたく品」だったけれど、今では無くてはならないものと判断されている。恐らくこの事件は、その過渡期に起こっていたのだと思う。

テレビで疑問に思ったことを、市役所勤務の母に投げかけた。「生活保護者に対して可哀想だね、なんでそんなに厳しいの?」ーーその意見に母は少しだまり、ちょっと困った顔をして、「でも中にはね、生活保護でもらったお金を使って、タクシーで市役所まで来る人もいるんだよ。欲しいものをたくさん買って『お金が無いから』と借りに来てる人をたくさん見てるから、なんとも言えないなぁ」と答えた。

私たちは過去の経験から、今起こっている事実に対して「どういう意図だったか」の仮説を立てる。ニュースで取り上げられる殺人事件や子どものいじめ、犯人が「どんな人柄だったか」を取材しては、その様子から「きっとこんな気持ちだったのだろう」と想像する。

「この人はきっと、お金が無くて大変な思いをしていたのだろう。可哀想だ」と、ニュースで知った知識のみを頼りに考える私と、生活支援科の同僚が、浪費癖のある生活保護の対象者の対応に苦労する様子を、間近に見ている母。この時、母と私は「生活保護者の死」という事実に対してその人の性格をイメージして、想像の中で会話をしていたのだ。

「価値観が合わない」と思う時は、この"仮説の立て方"が全く違う時なのだと思う。今までどんな経験をしてきて、どんなものの味方をするのか。それは「正しい」とか「正しくない」とかの問題ではなく、相手が「どんな仮説を立てるのか」だけ。そして"仮説"は、事実がわからない限りどんなものでも「可能性がある」。

それでも人は、自分の仮説が「正しい」と思ってしまいがちだ。似たような価値観の人と一緒にいればいるほど、それは強くなる。自分の価値観を「正しい」と思って過ごしているのが一番楽だし、気持ちがいい。だから違う価値観の人と出会ってしまうと「あの人は間違っている」と攻撃したくなってしまうのだろう。

自分の考えは「正しい」のか、「可能性がある」のか。「あの人は間違っている」と思ってしまった時、深呼吸して考えなおしていきたい。


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