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フェミニストを休業すると決めた夏の話

#metoo が日本で一時的にブームになるより前から、わたしはフェミニストを名乗っていた。当時はそんなにフェミニストだからといって目くじらを立てられることもなかったと思う。わたしはフェミニストTシャツ、というGUが売り出したキャッチーなTシャツを着て、フェミニストたるもの何を目指すか、なんて文章をInstagramにつらつらと書いたりしていた。もうおよそ、2年前の夏のことだ。


"yep,I'm a feminist"
(うん、わたしはフェミニスト)
このメッセージ通り、わたしは自称フェミニスト。でもそれを言うと、「可愛げがなくて女性特権を味わってないがゆえに女性の権利ばっかり主張する男嫌いのブス」みたいな視線を浴びることも少なくない。「フェミニストなら男に媚びるな」と言われることもある。
(中略)
*
フェミニズムの本質は「男女の性差は仕方ない、でも、それ故にどちらかが損しないように互いを認める」ところにある。
わたしは、男性の権利を横取りしたいなんて思わないし、女だけがいい思いする社会なんて、そんなの絶対嫌だと思う。絶対楽しくない。
男女は役割が違うだけなのだ。役割も得手不得手もそれぞれが持っているし、なんならそれは男女なんてフィルタをかけて括るべきではない。
フェミニストは、「男女どっちも人間みんなが幸せになるにはどうしたらいいか」を考える人種だと、知ってほしい。

キャプションからの引用なのだけれど、我ながらよく書けている。本質的な「フェミニズム」について、かなり理解している方ではないだろうか、と手前味噌ながら思う。

それより遡ること1年少し前のある気持ちのいい夜に、(もう思い出すこともなくなってきたのだけれど)性的にかなり嫌な目にあった。一時はどうなることかと思うくらいに人間不信になり、男性性を糾弾したくなり、外を歩くことが嫌になり、ちょっと女性扱いされることも不快だと思うようになった。ほらね、やっぱ女であるって不便だしロクなことないんだ、と思った。メイクやファッションをこよなく愛するわたしが、その楽しみを手放してでも女でありたくないなぁ、とすら考えるようになっていた。

そんなわたしが自然と出会ったのが、「フェミニズム」という「思想」だった。個人的に、思想は道具だと認識している。先人たちの思考の積み重ねが思想であり、それを辿り、理解すると便利なことに、一人では考えつかなかった境地に行ける。そしてまたそこから、自分の思考体験をはじめることができる。そのための道具だと思っている。
わたしはフェミニズムという道具を知った。それは、人類のとくに近現代史において、女性の果たしてきた役割、男性の果たしてきた役割、そこに区別と差別があることをそこではっきりと認識した。今その差別にようやくスポットライトが当てられるようになり、ありとあらゆる差別の是正のために、男女をその根元にあるジェンダーロールから解放するために戦って、少しずつ権利を回復している、そして平等をめざしている人たちの物語に思われた。
わたしがこんな思いをしたのは、わたしのせいじゃない、構造のせいだ、と思えたことにより、わたしは多少救われた。だから構造を変える側の人間に、わたしもなりたい。そう思っていた。

結論からいうと、これはめちゃめちゃ正しかった。
悩みながら10代が終わる頃にひとりで辿った思想は何も間違っていなかったし、そこから考えたことは何もおかしくなかった。

だったらなぜ今、「フェミニストを休業」なんてことを考えるようになったのか。ひとえに、今のフェミニズムを取り巻く過激すぎる言論のせいだ。ここには、あまりに強く、憎悪を生む言葉しか、もう残っていないのかもしれない。そう思うようになってしまった。

たとえばGoogleで「フェミニスト」と検索すると、予測変換にはこんな風に出てきてしまう。

たとえばTwitterではこんな風に、適当に検索したほんの一例だが、ほんとうに毒気のある言葉の応酬が、「フェミニスト」と「アンチフェミニスト」の間で盛んにされている(引用したくなすぎてマジでひどいやつはスクリーンショットしなかった、これは生ぬるい例にすぎない)。

フェミニズム目的は怒ることではなかったはずだ。あくまで、ジェンダーロールからの解放、その構造の中にある不当な格差の解消、それ以上でも以下でもないはずなのだ。
怒ることそのものは、その過程の中で時に必要になることもあるかもしれない。しかしそこで、強い言葉で斬りつけたとて、何も進まない。
そしてまた、アンチフェミニストも、なぜそんなに、フェミニストを殴ることに躍起になるのか。自分が斬られるかもしれないという不快感からか、はたまたなんとなくの憎悪か。そこまでして何を、守りたいのか、あるいは作りたいのか。さっぱりわからない。

少なくともわたしは、ここ半年、一年くらいの、インターネットにおいての殴り合いゲームがフェミニズムの主戦場となっていることが気持ち悪くて仕方がない。少なくともこの殴り合いからは、何も生まれないと確信している。むしろ不要な線引きや分断を加速させる、逆効果でしかないと言い切れる。

この泥沼化した戦場に残るくらいなら、或いはこの戦いと同じ場所にいると認識されるなら、わたしは喜んでフェミニストの看板を下ろす。フェミニズムは思想である以上手段だ。わたしが、わたしの作りたい世界を作る手段は、少なくともいまの「フェミニズム」を取り巻く状況の中には見出せない。3年前の夜にわたしを救ってくれたフェミニズムは、過激すぎる言論によって薄汚れてしまった。そして、どれだけ「本来のフェミニズム」を説く人がいても、強く汚い言葉のパワーには勝つことができない。燃えるような言葉、その火は周りを溶かしながら、ジリジリと本体さえ焼き尽くす。

フェミニストが本来の意味を取り戻す日がくれば、わたしはまた、フェミニストを名乗りたい。その日がくるまで、わたしは勝手に、自分のまわりを生きやすい世界にしていくことにする。

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