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小魚になった女の子の話

毎日大量の野菜を洗い、むいて、切り刻みます。賢くて繊細でものをわかりすぎる女の子は他の人より仕事が遅く怒鳴られてばかりです。朝一に積まれた野菜の山を見るとため息がでます。担当分だけでもやり遂げなければと必死で洗い、むいて、切り刻みます。女の子の手はぼろぼろになりました。その手を見て厨房頭である太ったおばさんが嘆きました。

「今時の若者は使えないねえ! あんた、そんなんじゃ手がしみて野菜もろくに洗えないだろ。明日から野菜を市場でもらう仕事をしな」

女の子は黙ってうなずきました。見た目は真っ黒でぼろぼろに見える手ですが、寺院の庭にはえている薬草とスープの残り物の脂で軟膏を作って塗っているので痛くありません。

「命令されて機械的にやる仕事はむいてないことがわかったから、市場へ行くのが楽しみだわ」


女の子は朝もやの中、荷車を引きながら市場への道を歩きます。朝の忙しさを過ぎた時間帯が一番余り野菜をもらいやすいそうです。

市場に着きましたが目標の時間よりも早かったので女の子は市場の前にある湧水の縁に座りました。毎日厨房の喧噪の中で野菜を洗ったりむいたりして、すっかりくたくたです。こんなにたくさんの人間の中で過ごすのはいつぶりでしょうか。

こんこんと湧く水が朝日を受けて輝いています。野菜を洗う貯め水ばかり見ていたので自然にわく水を久しぶりにみた気がして女の子は湧水に手を伸ばしました。

ひんやりとした水に手を差し入れた女の子は水底に小魚がいるのを見つけました。

「こんな冷たい水でおまえは生きていられるの? ああ、でもこんな清らかな水に住んだら体の疲れも一気にとれるわね」


そう言ったとたん、女の子は水に住む小魚になっていました。自由です。なめらかな鱗に包まれ、尾鰭は力強く、肺は水を愛しています。水は手足であり意識であり自分の一部でした。体をくねらせ水の湧く地面に近づきます。身を刺すような冷たさです。耐えかねて温かい水の方へ泳いでいきます。水の中には温度の道があり、速さの違う道がありました。速い道に乗ると滑るように進みます。ほとんど自分の力は使いません。道の速さに身をゆだねながら女の子は街外れの川まで来ていました。いえ、この水の匂いは森を流れる川かもしれません。ずいぶん遠くまできました。

苔が生え、仲間の魚たちがいます。女の子である小魚はおいしい苔を口にすると、嬉しくてその場でくるくる回ります。

夢中になって苔を食べていたので背後に迫る影に気がつきません。女の子である小魚は大きな魚に食べられていました。


しまった! 体中の血管が縮むような恐れを感じました。

でも仕方がないという穏やかなあきらめが広がります。どうしようもありません。食べるものは食べられるのです。死を受け入れた女の子である小魚は静かに広がる至福に浸ろうとしたとき、小魚の体から弾き飛ばされていました。


湧水の縁に座る自分の体に戻ると女の子は目をぱちぱちさせました。そして水面に目を落とします。

「受け入れるってこう言うこと? 私は水と一緒に働くことを忘れてた。野菜を洗うのも、水の流れ、水の道のあの感覚を借りてない。すべてを自分でやるなんて思い上がりだ。勝手に期待に応えようとして、がんばれば何とかなると必死になって、無駄な力しか私は使ってない。疲れているのは無駄な力が入っているからなんだ。躍起になって野菜の泥を落とそうとしているからうまくいかないんだ」

女の子は元気よく立ち上がると市場へ向かいました。


元気よく市場へ向かいましたが余り野菜をもらうのはなかなか大変な仕事でした。邪険に追い払われたり、完売していたり、本当に少ししかもらえなかったりします。一日の施しのスープに足りる分を集めるまでは帰れません。

「あの水の感覚を思い出してみよう。流れに沿ってみる。水と調和する。頭を使ってどうにかしようとするのを辞める」

市場全体を見回します。野菜を扱う店を探すのでなく、人の流れ、活気の流れ、熱気の差を見るのです。そうです。森で薬草やキノコを集めるときにはその感覚を使っていました。肉の目で見るのではなく内なる目で見るのです。

女の子は活気の流れに沿って歩き、活気がとぎれたところにある店から余り野菜をもらい受けました。人の流れが渦巻く地点から一本通りからはずれた店に声をかけました。熱気が静まったばかりの店に顔を出しました。そうやっていくつかの店を巡るうちに一日の施しのスープに充分な野菜が集まりました。

続く

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