ADHDの息子が海外インター校で変わった話②「型にはめる」日本と多様性に富むインター校
マレーシアクアラルンプール在住の
美帆です。
マレーシアで3人の子育てをしています。
長男は8歳の頃、注意欠陥多動性障害、ADHDと診断されました。
3年前、中学1年時の偏差値は35。
そんな長男をマレーシアのブリティッシュ系寄宿制
インターナショナル・スクールへ入れて3年。
息子はこの学校で
成績優秀者として2年連続でトロフィーを獲得するほど
成績の良い生徒となりました。
それはどういった要因によるものか。
日本との違いは何か。
考えたことを書いています。
「型にはめる」日本
私ははっきりと
日本の教育は「型にはめる」教育
だと思っています。
息子の時と異なり、今では発達障害の知識は広まり、療育施設も増えました。
それ自体はとても喜ばしいことだと思っています。
ですが、私は療育は早ければ早いほどいい、という昨今の風潮に疑問を感じてもいるのです。
「発達障害があるとみられる1~5歳の子どもは全体の6.5%。一方で、ちゃんとした専門的な支援があれば症状を緩和することはできるのに、そのことはあまり知られていません。」
(引用元→東洋経済オンライン「発達障害の子を救う「遊んで学ぶ教室」の役割~幼児6.5%が抱える問題、症状は緩和可能だ」より)
「発達障害の子どもたちは苦手なところもあるけれども、得意なところもいっぱいある。その子に合った環境さえ用意してあげればその子がのびのびと、わんぱくに遊んで成長していけて、自分が思い描くような人生を送れるんじゃないかなと思って、この事業をしています」
(引用:同上)
この2つの言葉。私には矛盾があるように感じられてならないのです。
例えば療育で行われること。
「指先の運動のために、小さなピックのおもちゃを使わせる」
得意なことを伸ばしてやりましょう!と言いながら
やっていることは「苦手の克服」ではないでしょうか。
「症状を緩和する」という言葉には
「得意なことを伸ばす」という意味合いは全くありません。
「他の子ができることに少しでも近づく」
ことを目的としていないでしょうか。
「○ちゃんはピアニカ出来ないけど跳び箱上手いよね」
だから体操教室に通わせよう、と言うのが「得意を伸ばす」ことだと思います。
それと同じように
「○ちゃんは細かい作業は苦手だけど絵が得意だよね」
だから絵を習わせよう、とするのが良いところを伸ばすことであり
なんとかして細かい作業も出来るようしていくことは
その子の良いところを伸ばしているわけではありません。
誤解のないよう言っておきますが、私は全ての苦手の克服が悪いとは思っていません。
息子は、今高校生です。
今でも、時折パニックを起こして叫ぶことがあります。
私は、当然ですが、パニックを起こしていい、とは息子には言いません。
社会で生きていくならパニックなど起こさないほうが良いです。
きちんと感情をコントロールしていくほうが良い人間関係を築けるでしょう。
ADHDはなんの免罪符にもなりません。
今の学校でも、息子にはアンガーコントロールと
社会性を学ばせようとしてくださっています。
そういう意味で「症状を緩和する」というのは必要なことだと思います。
しかし、未就学児にやらせなければ「ならない」ものでしょうか。
そして、本当に「やらないと人生で困る」ものでしょうか。
やらせてもやらせても子どもは出来ない。
やる子どももそれを見守る親も辛いです。
療育先で相性の悪い子がいる、子どもが療育でなく公園に行きたがる、などで
通うことに疲れ果ててしまった方から相談を受けたこともあります。
なのに「早期療育」すべきという呪縛に囚われてしまう…
療育先が「合う」子は良いかもしれません。
ですが、「早ければ早いほどいい」とは、私は思えないのです。
「1歳半検診の後の2歳からは始めたほうがいい」という話も聞きました。
本当でしょうか?
子どもは1000人居れば1000とおりです。
2歳という、まだ発達の個人差がある時に「始めなければならない」(行きたい人は別です)理由が私にはどうしてもわからないのです。
「絶対しなければならない」「義務」ではないはずです。
その一方、苦手の克服とは別に、療育施設は
「子どもが安心できる、子どもを認める場」としての役割も持っているでしょう。
そういう意味で、今の日本で
記事にある療育施設などの活動は本当に素晴らしいと思っています。
ですが、それこそ日本の「型にはめる」教育の弊害ではないでしょうか。
多様性が根付いているインターナショナル校
息子は日本では友だちがいませんでした。
ですが今の学校では友だちがいます。
寮で誕生日パーティーをしていただいたときの息子は、本当に楽しそうでした。
「彼はちょっと変わってるけど」
友人たちから受け入れられています。
それだけで、息子はみるみる落ち着きましたし
落ち着くことで色々とうまく回り始めます。
それが、副次的効果として「成績」に現れたのだと私は考えています。
療育施設じゃなく、学校が安心できる場所になる。その今の姿が理想ではないでしょうか。
なぜ日本では学校で安心できないのでしょうか。
「変わっている」ことを理由に、「型にはまらない」ことを理由に弾かれてしまうからではないでしょうか。
現在息子が通っているマレーシアのインターナショナルスクールに通う子どもたちは、ボーディングスクール(寄宿学校)ということもあり、20か国にも及ぶ国籍の子どもたちがいます。
彼らは一様に他者の違いに寛容です。
「なんだか自分とは違うけど、文化の違いかな」
程度に考えるのかもしれません。
息子は別に「療育」とか「特別指導」をされているわけではありません。
普通に授業を受け普通にクラブ活動をし、過ごしています。
先生方の中には、
発達障害の知識やその対処を専門的に学んだ先生もいらっしゃるので
その先生と各教科の先生と連携して指導はしていただいていますが
特別に取り出しで指導を受けているわけではありません。
療育は本当に必要だったのか?
わかりません。
受けなかった息子とは会えませんから。
ですが、少なくともここには「型にはめる」価値観は日本ほどありません。
国籍の違う子も
宗教の違う子も
言語が違う子も
文化の違う子も
お互いを認め合う。尊重する。
「あなたと私は違うし、価値観も考え方も違うけど仲良くやっていこう」
そんな「多様性を認める」ダイバーシティが当たり前に根付いています。
だから、ADHDの我が子も受け入れられた。
そして、彼の得意を学校で伸ばしてもらえた。
そう考えています。
ここまで読んでくださりありがとうございます。