モノゴトの境目

全長50〜70cmぐらいだろうか。クッキーモンスターのぬいぐるみが旅行用のキャリーケースの上部に座らされ運ばれている様子を見た。

楽しい思い出の品であるかもしれないし、はたまたクッキーモンスターと共に旅行を楽しんだのか、ただの移動なのかそれは分からない。駅などで旅行シーズンにはよく見かける光景だ。小さな子どもが乗っている場合もあるかな。

突然だが、モノゴトの境界線みたいなものって案外曖昧だと思うのだ。

生きてるか死んでるか、好きか嫌いか、妄想か現実か、悪か正義か…などなど…

まあ「曖昧」という状態は精神的なこととしてかもしれないが。

人それぞれ、これまで生きてきた環境、教育、感じ方次第とも思うが、あらゆることに一定の定義があって、大きなくくりとして、公や常識の範囲などがあり、どちらかを決めなければいけないこともあるだろう。

でも人間の精神構造は複雑だし脆かったりで(ソレが悪いことではない)ある時を境に「決める」ことはあっても、どちらかの間を揺れ動いている時間は長いか、ずっと揺れているような気もする。

どこかの学者さんか何かが書かれていた本で、今、わたしたちが見ているもの感じていることは、脳が作り出している幻に過ぎないというようなことが書いてあり、そんなこと言われたら、本当にわたし自身はわたしが認識している姿カタチをしているのかだって、究極分からない、と、思わされる。

本当のことというのはいつも自分で決めるしかない。

現実と妄想、生きているか、死んでいるか、正義か悪か、それには明確な境界線はあるのかもしれないが、境界線を設けなくていいこともあるし、設けられないこともあると思う。

そして冒頭に戻るが、例えばクッキーモンスターをキャリーケースで運んでいる様子。

コレをただぬいぐるみが運ばれているだけと捉えるか、この人の大切な存在と一緒に移動していると捉えるかで、印象はなかなかの違いはある。事実は本人しか知らないし、それでいい。

あくまで健康面を考えてのことだが、ソコに幻覚的な病的な要素が入らない限り、この本人はクッキーモンスターのぬいぐるみを心の友と思っていいわけだし、大切な存在と認識していいわけだ。そこにはこのお友だちが、いわゆる生命活動をしているかしていないかは関係ないと思う。

何が言いたいのか分からなくなってきたが、他人に迷惑をかけない、とか、自分を追い詰め過ぎない、とか、自分ルールの中で、あらゆる前提を踏まえてだが、自分が信じること、信じたいこと、何に安らぎや豊かさを感じるかを本人が決める自由を、大切にしていきたいし、それに対して、他人ももっと寛容、良い意味で無関心な世界がいいなと思った。


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