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42年目の今日という日

42年もの年月は、長いようで短く、短いようでいて長い。
今日、私は一つの荷を溶かした。荷を下ろしたのではない。物心ついたときから抱えてきたものを、成長過程で知りえたことを、自分の魂に心に溶かして一体化することができたのだ。

この感覚は、学んだ物事を昇華させたり、体験したことを心で理解して糧にしたりした経験がある人なら、たぶん理解できるんじゃないだろうか。

荷を溶かせたのは、同じく荷を背負い続けてきてくれた人がいたおかげだ。その人は、私の荷と表裏一体だった荷を、私の知らないところで42年背負い続けてきてくれたのだ。

申し訳なさと感謝。相反するような感情が、カクテルのように混ざり合う。


私は今日、生まれて初めて血を分けた"きょうだい"と対面した。

対面の話が持ち上がってから、ずっと今日という日を迎えるまで、いろんな葛藤があった。悩みもあった。けれど、それでも選択は間違っていなかったと、会って確信した。

朝起きてから待ち合わせの時間までずっと、何を話そうか何を話せばいいのか、あれこれと考えていた。結局のところ、答えは出なかった。だから、何の用意もせずに会うことにした。

それが良かったのかもしれない。話をフラットな気持ちで聞くことができたし、正直な気持ちをちゃんと伝えることもできた。あえてそこには触れなかったけれど、きっとたくさん気を遣ってもらっていたとは思う。

42年もの年月を離れて過ごしてきた理由は控えるが、会ってみて不思議だったのは、顔立ちなのか雰囲気なのかわからないけれど、どことなく自分に近いように感じた。きょうだいというのは不思議なものだ。遠く離れていたはずなのに、なんとなく近いものを感じるのだから。


今日という日を迎えられて良かった。長い時間がかかったけれど、きっと私たちにとって必要な時間だったのだと(私は)思っている。会うのが早くてもダメだっただろうし、遅くても何かが欠けていたかもしれない。

人生は不思議だ。どこで何が、どんなタイミングで起こるのか、わからないのだから。これからも何かが起こるかもしれない。何も起こらないかもしれない。それは誰にもわからない。私にも、あなたにも、誰にも。

だったら、起こることをまずは受け止めて、咀嚼して、咀嚼して、咀嚼して、それから自分なりに答えを出して、行動していくだけだ。

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