普遍だけど忘れがちなこと
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うちの母は、風邪も滅多にひかず、骨折していても気づかないくらいに丈夫な人だった。けれど、母とて人間。人間には、生と死がついて回る。
「親はいつまでも元気」
そんなわけがない。それなのに、子どもはすぐに忘れてしまう。子どもだけじゃない。誰だって、目の前の人がいつ死んでしまうかなんて考えない。考えても、すぐに忘れてしまう。毎日に忙殺されて。
私の頭の中にも、どこかそんな思いがあった。けれど、そんなわけがないのだ。老いれば、人間、どこかしらに不具合が起きるもの。人生100年時代だなんて言われてはいるものの、実際に何の疾患もなく健康な70代、80代なんてそう多くない。
それは、病院勤めをしていたときによくわかっていることだったのに。「自分の親は大丈夫」無意識にそんな気になっているのだから、バイアスというものは怖いなと思う。現実を突きつけられて、ようやく「親も人の子だったんだな」と理解した気がする。
それまでは、親は《親》という役割、機能の中にいる人、といった感覚がどこかにあった。だから《親》という機能の中に欠陥を見つければ、それが許せないでいた。それは自分が親になってようやく気づいたことだけれど、それでもまだ私は、親を《親》という機能の中にいる人として見ていたのかもしれない。
病院最寄りの駅前に1軒だけ本屋がある。そこの店頭には、いつも「70代で死ぬ人、80代で元気な人」という本が平積みになっている。患者も通るその道端で、患者が見れば心が傷みそうなタイトルの他の健康関連本と並んで、でんと積まれているのだ。
どこの本屋でも同じだが、母が病気にならなければ、おそらく私自身、今でも素通りしていただろう。かといって、読む気にはなれなかった。ただ、いつも前を通るたびに、少し心が傷むのは確かだった。
うちの母は、決して健康的な生活を送っていたとはいえない。タバコも吸うし、お酒も飲むからだ。それでも、持病といえば高血圧症くらいで、他に何かしらの疾患を抱えているわけでもなかった。そんな親でも、ある日突然、がんを宣告される。見つかったときには、すでに手遅れだといわれた。
不摂生な生活をしていても病気になる人とならない人がいる。タバコを吸っている人全員が肺がんにならないのと同じで。なのに、私を含めて人というものは、親の健康同様に自分自身の健康に対しても過度な自信を持っている。
「若いから大丈夫」
そうして病気になると、こう思うのだ。
「どうして自分が」
私にも身に覚えがあるから、そう思ってしまいたくなる気持ちもわからなくはない。でも、長く生きれば生きるほど、どこかしらに不具合は生じてもおかしくない。それは、早い段階で訪れるかもしれないし、もしかしたら、ずっと訪れないかもしれない。
それでも、いつか人は死ぬ。それだけは避けられない事実。親だって人の子だ。いつまでも元気で、子どもの手を煩わせない、なんてことがあれば、奇跡の中の奇跡だろう。
遅かれ早かれ〝そのとき〟は必ず来る。それまでの間に、どう生きるのか。どんな覚悟で生きるのか。逝く側だけでなく、遺される側にもいえること。
母の余命は、遅くて半年。早ければ3カ月。状況によっては、明日かもしれない。母が自分でできることはもうそれほど多くない。だから、代わりに考える。何をしてやれるのか、何ができるのか。お互いに悔いをできるだけ遺さないために。そして、いつか来るだろう自分の死に際したとき、我が子にとって知恵となるように。
健康とは、生命の誕生と同じくらいに奇跡的なものだな、と改めて思う。
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