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歴史が終わるとき、そこに人間はいない


人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明に過ぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。

賭けてもいい、人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するであろうと。
ー『言葉と物』ミシェル・フーコー


1、歴史の終わり

私たちにとって「歴史」とは何だろうか。
おそらく多くの人は、「日本史」や「世界史」といった教科科目としての歴史学を思い浮かべると思う。

ここでは少し違った見方で「歴史」というものを考えてみたい。

たしかに歴史「学」という学問においては、世間のイメージとそれほど相違なく、過去に起こった「客観的事実」を積み重ねることが重要視されている。
事実の正解を探求する学問という点でいえばとても科学的だ。

しかし、その在り方とは対象的に、歴史を「人間」を主人公にした物語のように捉える考え方がある。

かつてまだ階級ごとに身分が定められていて、一部の特権階級による支配が当たり前だった頃があった。
そんな時代が続く中、18世紀ヨーロッパで大きな事件が起こった。

フランス革命である。
人類史の中ではじめて、民衆が自分の手で自由を掴んだ瞬間として、喝采を持って迎えられた。

その時代を生きた思想家は、人間は自由に向かって進歩していくのだ、という考え方で歴史を肯定的に認識した。
これが、ヘーゲルやマルクスのような物語的な歴史観である。

これは歴史を「人間が自由を実現していく過程」と見なす考え方であり、楽観的歴史観とも言われる。
当然ゴール地点では人間は皆、自由であり理想的な社会が実現されていることになる。

しかしながら、フランス革命の末路や二度の凄惨な世界大戦を経験した後の世界で生きる私たちには、この歴史観は安易に飲み込み難いものがある。

世界大戦後の思想家達も同様に考えた。

マルクス主義を批判的に引き継いだアドルノやホルクハイマーは、人間というものが理性によって自由を獲得し、文明を発展させていきながらも、その実、理性自身の本質によって野蛮に陥る運命にあることを説いている。

これは言い換えれば、人間がいくら頑張ったところでーむしろ、頑張って「しまう」ことによってー過ちを犯すことは避けられないという悲劇的な歴史観でもある。この人間観については後にも詳しく触れる。

一方で、フランシス・フクヤマはヘーゲルの歴史観を継承しつつ、「歴史の終わり」という概念を生み出した。
歴史が何かの理念を実現するために存在しているとするなら、その目的が達成された時、歴史は「終わる」ことになる。
フクヤマにおいてそれは民主主義の理念がその正当性を歴史において証明することを意味していたが、実際に彼が想像した「歴史の終わり」というのは寂寥感を持ったニヒリズムを感じさせるものでもあった。

民主主義が歴史の中で真に完成された時、すべての人間は平等である。
しかしながら、すべての人間が等しいというのは、誰も特別ではないということを意味している。
全てが同じ存在であるなら、誰であってもよいことになる。

この葛藤はSFアニメ『PSYCHO-PASS』においても象徴的に扱われている。
すべての人間が画一的な基準で数値化され価値を測定されることで公正な秩序を獲得した社会で、その秩序に仇なす黒幕、槙島聖護は平等の牢獄の中では何者も特別になりえないことを嘆いた。

「誰だって孤独だ
誰だって虚ろだ

もう、誰も他人を必要としない
どんな才能もスペアが見つかる
どんな関係でも取り換えがきく

そんな世界に飽きていた」
ー『PSYCHO-PASS』第22話「完璧な世界」より


フクヤマにおいて、民主主義・平等主義・自由主義があらゆる社会でいずれ実現されるのは歴史的必然であった。
それはそのイデオロギーが合理的で普遍的たりうると彼が考えていたからである。
その意味において、民主化を終えた国家や社会というのは「歴史の終わり」にいる。
しかし、「終わる」ということは当然その先に大きな変化は起こりえないわけで、その世界で人間は「平等に誰にも価値がない」ことに埋没しなくてはならないのだ。

ヘーゲルはフクヤマほど明確に絶対善を想定していた訳ではないが、人間の歴史はある一定の水準まで達すると、あとは振り子のように両極を行ったり来たりするのみになると考えていたようだ。

その例として、福祉国家と自由主義国家がある。
民主主義が実現されると、社会制度は両者をどの程度有するかのバランス論争にしかなりえない。
自由を制限する代わりに再分配による平等を取るのか、格差を是認するかわりに個人の自由を取るのか。
これに単純な正解はなく、ただ同じところをグルグルと回るだけになる。
これはヘーゲル流の「歴史の終わり」と言える。

フクヤマにしても、ヘーゲルにしても、私たちの生きている社会は民主主義という民衆の自由の理念が達成済みであるという点で、「歴史の終わり」に立っている。
それも、もう随分前からだ。

私たちは、すでに歴史の「終わった」世界で生きている。

2、人間の消滅

では、もし歴史が終わっているとすれば、この世界で生きている私たち人間とは何なのだろうか。

フーコーはそもそも「人間」という概念が近代の「発明品」に過ぎないとする。
デカルトから強調されることになった「自律的な思考する自我」を人間の本質と定義づけ、それを骨組みとして肉付けを様々に試みてきたのが近代の思想史である。
その「人間」像の探求はある時代において真理であったが、その像は崩壊の兆しを見せていると彼は指摘する。

心理学や構造主義、言語学の発展により、人間の自我でコントロール不可な領域が明らかになった。
人間個人の自律性や自我の不可侵性が幻想であるならば、もはや人間を主題にする必要はなく、ただ無意識下で支配的なシステムを探究してさえいればよい。

私たちが当たり前にアイデンティティとしている「人間」という土台すらそもそも脆いものなのだ。

実際には近代的な人間像は民主主義の社会システムに深く組み込まれており、直ちにそれが崩壊するとは思われないが、「人間」という概念が主役に座する時代は確かに終わろうとしているように見受けられる。

歴史の主体である人間は、時代を紡ぐ中で真に「人間的」になろうとしてきた。ここで言う「人間的である」とは、自由・平等といった理念のもとで生きていけることである。

人間は、はじめから人間として漫然と存在しているのではなく、「人間」であろうと努めてきたのである。

しかし、「歴史の終わり」に達した時、自由や平等といった、人間としてあるための基本的権利は獲得されており、もはや「人間」であろうと努力する必要はない。

歴史の終わりにいる私たちは、これ以上「人間」になるための闘争をする必要がないのである。
(これは何も、現在においてすべての人間が平等になったと言っているのではない。フクヤマ流に言うならば、歴史において民主主義が打ち立てられれば、あとはそれが浸透されていくのみであるので、時間はかかってもいずれすべてが平等になることが「約束」されている。
歴史の終わりにいるというのは、「完成された世界」を指すのではなく、「いずれ来る完成形が見え透いてしまった世界」なのである。)

誰も人間であろうとしないのであれば、「人間」は停滞し、次第に誰も問題としなくなる。
誰にも「人間」という概念が必要とされなくなることで、消滅していくのである。

それはフーコーの想定した終焉とは異なるが、「波打ち際の砂の表情のように」静かに迎える「終わり」である。


3、正しい野蛮、捨てられた人間、潔癖な腐臭​

古代ギリシアの叙事詩『オデュッセイア』に登場する英雄オデュッセウスは、故郷を離れ冒険しながら、神話の神々を詭計によって打ち負かしていく。

アドルノ、ホルクハイマーはこの物語を人類史の歩みと重ね合わせて解釈をした。
科学が発達する以前の世界においては、神話的世界観によって世界が説明されていた。未知の領域があまりに多く、神々にその法則性を担わせるのは必然であった。
この状況を彼らは「神話」と呼ぶ。

対して、オデュッセウスは近代的人間、すなわち理性の象徴である。未知の領域であった「神話」の世界に、オデュッセウス(=理性)は足を踏み入れ、神々(=宗教的世界観)を克服していく。
この、未知なる世界を合理性の枠組みをもってして既知の世界とすることを、彼らは「啓蒙」と呼んだ。

彼らの『オデュッセイア』解釈で特徴的なのは、セイレーンに関する部分である。

セイレーンはその美しい歌声で船乗りを誘惑し、沈没・難破させてしまう。
そのため、オデュッセウスは船の乗組員の耳に蝋を詰め音を聞こえなくしつつ、自らはセイレーンの歌声に惑わされた時に備えてマストに全身を縛り付けた。
セイレーンの歌声を聴いたオデュッセウスは我を忘れて彼女のもとへ行こうと暴れたが、マストに全身を縛り付けていたこと、そして船員に絶対に解かないように厳命していたこともあり、難を逃れることができた。

アドルノ、ホルクハイマーはこの逸話を近代以後の社会における理性とエゴイズムの対立のメタファーとして見た。
オデュッセウスはあらかじめ理性にのみ基づいたシステム(蝋を詰められた船員達と彼による命令)を確立しておき、そのうえで自らを縛り付けた。
セイレーンの誘惑により彼の欲望が爆発するが、自らの外に置かれたシステムと自縛の冷静な強固さによってエゴイズムを抑え込むことができたのである。

故郷に帰還したオデュッセウスは、自らの不在の間に妻に取り入ろうとした男達とそれに加担した侍女達を皆殺しにする。それによって、オデュッセウスは故郷での地位を取り戻し確固たるものとしたのであったが、アドルノとホルクハイマーはこれを神話を啓蒙しつくした理性が特権化することで、残虐化することの隠喩のように取っている。

理性とは個々のバラバラな事象から法則性を見出し、同一化させる能力である。
それにより自然の未知を克服したのであるが、その支配が人間にまで及ぶようになると、個々の主体性は破棄され同一化が強いられるようになるというのである。

この議論は「歴史の終わり」と地続きのように思える。
平等・自由といった近代的な理念は理性の力で強力に推し進められてきた。それがひとたび権利として達成されると、歴史が「終わる」というのは既に見てきた通りだが、その理性的な世界においては、人間は達成すべきものを持たず、次第に「人間」であることが失われていくのである。

アドルノとホルクハイマーはこの緩やかな人間のお終いよりも、ショッキングな人間の終焉を予見している。
つまるところ、人間が理念の達成のために使用してきた輝かしき理性が、人間にも当てはめられることで個別の差異や意志が抹殺され、それが社会システムや大衆のなかで「善」とされることで、人間はこれまでにないような野蛮に陥るのである。
そして、それは人間理性の避けられない宿命だというのだ。

理性を人間に当てはめるというのは、つまり理念的な人権のことである。
「すべての人間に価値があり等しい存在である」というような言明が、「誰かが特殊であることは許さず、画一化・合理化されていない価値基準は認めない」という差異を剥奪する危険な思想と表裏であることを指摘したのだ。

理性は、人間が「人間」であろうとした時代においては英雄であったが、「歴史の終わり」においては蛮族なのである。


人間は歴史の中で、公正な社会と真に自由であることを望み、少なからずその実現へ向かって努めてきた。

しかし、「歴史の終わり」に理念が達成されると、そこには「人間」が生きるための立派な建物は建築されるが、肝心のそこに住まう「人間」が不在という逆転した現象が起こる。
その代わりに、かつて「人間」であった、あるいはあろうとした思考なき存在が住みついているのである。
これはまさに「石あって賢者なし」だ。

実際に、現代において「人間」もどき達はそのかすかな人間性を自ら放棄しようとしているように見える。
遠からぬ未来、緩やかな人間の終焉を待たずに、人間自身が積極的に「人間」であることを捨て去るだろう。

では、「人間」の放棄とはどういうことであろうか。

立派な宮殿の中で、個々人は特別でありたいと思いながらも、平等の檻の中でエゴイズムを抑えこむ。しかし、それゆえに自分の他に特別な人間が存在することを許すことができない。
正しい理念によるエゴイズムの抑制が、他者へ同一化を強いる過剰な執念となり、一種の「暴力」を呼び起こすことで、人間は再び野蛮になる。
平等とは権利であったはずが、ここに義務へと転じるのである。

社会が公正になればなるほど、かえって他者との差異が強調されるようになるが、これまで理性に勝利を言い渡してきた人間には、この画一化を逃れた人間の本性が存在することに耐えることができない。

現代社会においては、「多様性」という文句が新たに絶対的な権威を得ようとしてきているが、この概念は絶望的なまでに理性と相性が悪い。
本来は、平等な権利によって実現する自由な社会においては当然に実現可能な理念に思えるが(実際に支持者はそう思っている)、理性の力でエゴイズムを抑えてきた人間の多くは、これまた当然のように差異の保護を認められない。

多様性なるものが権威を獲得したとして、それはバラバラなものがただ存在することをよしとすることであるため、理性からすれば未知なものが転がっている「散らかった」世界であり、神話の世界と大差がなくなってしまう。

それはある意味それぞれが隔絶された孤独であり、人間が「人間」であるなら、それにこそ価値を置くべきであるが、現在はその真逆を進んでいる。

技術の発展により、コミュニケーションが容易になることで、物理的な距離は近くなったが、それらはお互いの同一性を確かめあうために使われているに過ぎず、理性はより強固な権力を持つようになっている。現代において差別や排斥が加速するのは至極自然な流れである。

まさに1947年にアドルノとホルクハイマーが予見した通りに人間は順調に「人間」を放棄し、そして彼らが生きていた時代以来、再び野蛮に陥ろうとしている。

しかし、これは道を踏み外したというより、人間の宿命なのであり、避けようのない事態であるように思える。

人間は人間自身の手で、「歴史の終わり」を迎え入れたのであり、同じようにして「人間」を捨てる。
これはこの先何度も繰り返されるだろう。

「人間」が不在の世界では、歴史の続きは存在しない。
ただ「人間」らしきものが、自らのその愚かさを、手を替え品を替え確認する世界がひたすら上映されるのみなのである。

この結末は、人間が知恵の実を食し地に落とされた時から定められてあることなのだ。

まさに、「知」そのものが人間の罪の象徴なのであり、それを持つが故に「楽園」への門は永遠に閉ざされたままに、実を食すためのあの欲求と、かの知性が対立し歪に混じり合いながら堕落し続けるのだ。

4、着飾った吐瀉物

世間で無造作に使われる言葉の中で、私には嫌いなものがたくさんある。
「セルフマネジメント」「自己実現」「絆」「ワンチーム」「総活躍」「成長」…

これらは、見かけ上は綺麗なものに見せておきながら、その実は空っぽである。

例えば「成長」という言葉、これは「自己実現」や「セルフマネジメント」等と一緒に使われているのをよく聞くが、言葉の定義上、当然目的地が置かれていてしかるべきであるのに、それを口にする人はいない。

何がしかの経験やスキルアップが「成長」だと言うのであれば、それらと到達点との連関がなければおかしい。
しかし、彼らが言う成長とは「たのしい」「うれしい」くらいの単純な感情の言い換えに過ぎないので、老人のお散歩のようなものだ。
その道は出発した時から帰路に着いているのだから、どこにも行先はない。

「成長」のためには旅行に行くことも重要らしい。彼らはオデュッセウスではないので、倒す神話もなければ、詭計をもった啓蒙ですらないのだが、故国の外にでるだけで神話の神々と闘ったように思えるようだ。
地を這う蛇がとぐろを巻いてグルグル回る。すると視界がどんどん変わっていく。それが不思議で新鮮で、とにかく楽しくて仕方がない。そしてまた元の場所に帰ってくる。どこにも動いてはいない。

彼らは気まぐれに「そそのかし」を行う。私にはその言葉達からは耐え難いほどの腐臭を感じるのだが、そうでない人も多いらしい。

彼らは平等の檻にうんざりして、特別になろうとしているが、そもそもこのような無意味な享楽に興じることができているのは、歴史がすでに終わっており、人間が自由の宮殿で住まうことのできているおかげだ。
結局のところ理性の同一化の土台の上で背伸びをしているに過ぎず、時折ジャンプしたりしてみるが、戻ってくるのはその土台の上である。
彼らが嫌う画一化の基礎がなければそもそも立つことすらできないのだ。
しかし「出し抜くこと」のみが目的化しているがゆえに、彼らの言語はかえって画一的になっているが、あたかも土台を踏み捨てて新たな大陸にひとり飛び越えたかのように思い込んでいる。
皮肉にも、彼らの思考を媒介しない行為は徹頭徹尾、理性的なものとなっている。

それはある意味で幸せなことで、理性の宮殿の中では脳髄がなくても「人間」として扱ってくれるため、気狂いも気狂いではなく、いかなる虚飾の戯れも受容してくれる。


他に、「絆」や「ワンチーム」も一時よく聞いたフレーズである。

こういう言葉は定期的に流行があり、大きなスポーツ大会や災害がある度に似たような吐瀉物が吐き散らかされている。

人間は本当に同一化が大好きなようで、これらは須らくファシズムのプロパガンダや号令の言い換えに過ぎないというのに、喜んで溶け込んでいる。
これも理性のなせる業である。

歴史の終わりと「人間」の消滅、そして理性の野蛮を上で述べた時、多くの人は日本の同調圧力のようなものを思い浮かべたと思う。
しかし、一見そうは見えないもの達こそ恐ろしい程隅々まで理性の狡智に支配されていて、「人間」が捨てさられているのがわかる。

日々、何か特別なものが生み出されるようでいて、それは何にも根ざしておらず、どこにも向かっていない。

私は人間に失望しているのでも、期待しているのでもない。なにせもう「終わって」いるのだからすべてが無意味である。

腐敗臭があちこちからするのは困ったものだが、せいぜい汚物を踏まないよう避けて歩くだけだ。

イギリスの作家、モームの言葉が私の心情を最もよく表現してくれる。

私はいつも人間というものに興味を持ってきたが、彼らを好きになったためしがない。

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