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あっちゃこっちゃの旅日記

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黒海の記憶・番外/ウードゥルのアララト#03

黒海の記憶・番外/ウードゥルのアララト#03

「俺の家からは、美しいアララトの姿が見える」と言うファーティフ/Fの表情が、微笑みながらも、まるで遠くを見るようだった理由が分かったのは何年も経ってからだった。彼は当時、イスタンブル新市街に拠点を置く彼の会社の近くに、家族と別れて一人で暮らしていたのだ。
「OK、ありがとう。次の訪欧の時にスケジュールを絞り出すよ」僕が言うと彼が大きくうなずいた。
「アララト以外は何も見るものがない街だがな、しかし

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コリョサラムGoryeo saram#11~おわり/アゼルバイジャンのバクーにて#11

コリョサラムGoryeo saram#11~おわり/アゼルバイジャンのバクーにて#11

アゼルバイジャンBaku。最終日に歓談会が有った。その席で再度「姜さん」に出会った。僕はGoryeo saramについて不見識だったことを詫びた。彼は笑った。
「80年以上も前の話です。歴史に埋もれてしまうのは仕方ないですね」彼は言った。
「ニコライ・イヴァーノヴィチ・エジョフが極東沿岸部の高麗人を狩りだしたのは、ただ単に猜疑心だけではなかったように思うのですが?」
僕がそう言うと、姜さんはおや?

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コリョサラムGoryeo saram#10/アゼルバイジャンのバクーにて#10

コリョサラムGoryeo saram#10/アゼルバイジャンのバクーにて#10

たしかに1937年の強制移住は、極東における日本との軍事的緊張を反映したものだった。朝鮮半島が日本国の統治国となり、満州傀儡国が建国されると、長い間殆ど無人地帯でしかなかった国境が大きな問題になった。どこまでがロシアか?どこまでが満州国なのかである。ロシアは公然とスパイ活動を満州国に仕掛けていた。そして日本も沿海州に居住する高麗人住民を利用してスパイ活動をしていると断定した。極東地区がロシアの管理

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コリョサラムGoryeo saram#07/アゼルバイジャンのバクーにて#07

コリョサラムGoryeo saram#07/アゼルバイジャンのバクーにて#07

いまさら言うまでもないが、ロシア/ソ連邦/ロシアはスラブ人だけの国ではない。東へ行けば行くほど、その多民族性は際立っている。
1932年初頭のデータを見ると‥極東地方におけるロシア人は103万3000人(全人口の58.2%)ウクライナ人36万5000人(20.6%)朝鮮人19万人(0.7%)ベラルーシ人6万人、中国人5万人、ユダヤ人1万3000人、先住民は6万3000人とある。非ロシア人の文盲率は

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コリョサラムGoryeo saram#08/アゼルバイジャンのバクーにて#08

コリョサラムGoryeo saram#08/アゼルバイジャンのバクーにて#08

1937年8月21日、政府・全連邦共産党中央委員会の決定により、極東国境地域から朝鮮人の追放が命じられた。
引用する。

「ソ連人民委員会議・全連邦共産党中央委員会決定第1428-326号 極秘 1937年8月21日
〇極東地方国境地区の朝鮮人住民の移住について〇
ソ連人民委員会議および全連邦共産党中央委員会は決定する。
極東地方への日本のスパイ活動の浸透を阻止するため、以下の措置をとること。

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コリョサラムGoryeo saram#09/アゼルバイジャンのバクーにて#09

コリョサラムGoryeo saram#09/アゼルバイジャンのバクーにて#09

20世紀の始まり、革命ロシアは輝いて見えた。
我欲な支配者に苦しめられる人々はマルクス主義者の美句に酔った。ロシアが唱える全面的農業集団(コルホーズ)は労働の最も理想的な姿に見えたのだ。1930年㋂㏡、スターリンは「成功による幻惑」論文を発表した。彼は最も理想的な生産システムとして「農業の集団化」を唱え、これを猛然と推し進めた。しかし、あるのは建前と理想論だけだ。沢山の集団農場は凶作に襲われた。み

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コリョサラム#03/アゼルバイジャンのバクーにて#03

コリョサラム#03/アゼルバイジャンのバクーにて#03

アゼルバジャイ・バクーはカスピ海に突き出たアブセロン半島の南の根元にある新しくて旧い街だ。BAKUは「風の街」という意味だそうだ。カスピ海は渦巻く寒気と暖気のせいで黒海以上に気象の変化が激しい、その吹きすさむ風を古代の人々は"bād-kūbe"バード・クーベと云ったそうだ。これがバクーという街の名前になったと聞いた。
自分でも少し調べてみた。そしてサラ・ハヌム・バラベク・ギジ・アシュルバンリSar

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コリョサラム#04/アゼルバイジャンのバクーにて#04

コリョサラム#04/アゼルバイジャンのバクーにて#04

会食が終わってホテルの部屋に戻ると、シンガポールからレポートが届いていた。
別添資料と合わせて50ページほどのレポートだった。僕はワイン片手にベランダへ出てこれを読んだ。
レポートは「スターリンの台頭」から始まっていた。いい切り口だな、と思った。

レーニンの死は1924年である。ソ連共産党はスターリンとトロツキーが拮抗した。トロツキーは世界革命論を説き革命の火ぶたを世界へ広げることを強く主張して

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コリョサラムGoryeo saram#05/アゼルバイジャン・バクーにて#05

コリョサラムGoryeo saram#05/アゼルバイジャン・バクーにて#05

ロシア革命は、レーニンがタナボタで手に入れた利権だった。時折歴史の女神が見せる悪戯だ。                                                                    
しかし「ロシア」を手に入れてはみたが・・である。「共産主義」は経営のための原動力とするにはあまりにも机上の空論だった。レーニンは瞬く間に国家経営に行き詰った。・・ロシアは深刻な

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コリョサラムGoryeo saram#06/アゼルバイジャンのバクーにて#06

コリョサラムGoryeo saram#06/アゼルバイジャンのバクーにて#06

国境を越えて朝鮮半島を北へ渡った朝鮮人が沿海州に現れたのは、同地が清国からロシアのものになってからだった。清朝は朝鮮人の移民を許さなかった。比してロシアは朝鮮からの難民を見逃した。難民は大半が農民だった。主に北方朝鮮族と東方日本海側の朝鮮人たちだった。

1910年、日本が朝鮮を統治国とした。
その政治的/経済的圧力から逃れるため、多くの農民がさらに極東ロシアへ流民した。ロシアは農地政策を奨励し、

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コリョサラム#02/アゼルバイジャンのバクーにて#02

コリョサラム#02/アゼルバイジャンのバクーにて#02

スターリンがレーニンの信認を得てロシア共産党の書記長になったのは1922年である。その年にソヴィエト社会主義共和国連邦が成立し、極東共和国を併合、日本海に至る広大なソ連なる国が出来上がった。トロツキーとの対立しながらも、レーニンの死をきっかけにスターリンは権力掌握のため手段を択ばない王になっていった。・・おそらく彼ほど人を殺した男はないだろう。その数は100万人を下らないと言われている。

スター

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コリョサラム#01/アゼルバイジャン・バクーにて#01

コリョサラム#01/アゼルバイジャン・バクーにて#01

前職の頃、ある大きなプロジェクトのためのSPCでコリョサラムGoryeo saramの方とご一緒した。カシャガン油田に絡む案件だった。
・・ここでは「姜さん」と呼ぼう。舞台はアゼルバイジャンのホテルのラウンジである。
姜さんは30歳半ばだろうか。グーブキン大学Gubkin Russian State University of Oil and Gas卒だとのこと。
「なぜ、金融の道にいったの?どち

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サンマルタンの夕日を見つめながら、思いつくままの寓話#2

サンマルタンの夕日を見つめながら、思いつくままの寓話#2

ところが、この天国と地獄の話が村長さんの耳に入りました。村長さんは困ってしまいました。
うちの村に、嘘をつかないなんて奴はいない。人をだまさないやつなんか居ない。
こりゃあ村ごと全員、地獄に引っ越しだなぁ。住民税は、どうなっとるんだろう。携帯電話は繋がるんかな。
村長は困り果てて、村人全員を連れてボクシを訪ねました。
ボクシは壇上からいいました。
「大丈夫です。行かなくても済む方法があります。」

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サンマルタンの夕日を見つめながら、思いつくままの寓話#1

サンマルタンの夕日を見つめながら、思いつくままの寓話#1

ムカシムカシ、南海に土人たちが平和に暮らしている島がありました。
その島に、鷲鼻の男がやってきました。男は自分のことをボクシと言いました。
ボクシは土人たちの村の外れに住むと、とても美しい歌をオルガンを弾きながら唄いました。
そんな美しい歌を聞いたことのなかった土人たちは、皆がボクシの所を訪ねるようになりました。

ボクシは歌の前に、必ずお話をします。
それは、死後の世界の話です。これも土人たちは

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