無題55

ミズタマリ 3-1

随分昔、おれとおまえの先祖の男が、ある力を持っていた。 その力は、修行を積んで得た呪法だったのか、 それとも生まれつき使えた呪術だったのかは、解からない。 ただ、その力を持った男は、その力が使えるという理由から、 その時代の権力者に使えていたのだろうという事は、 輝也さんが調べて書いたあのノートに記されているから、 きっとそうなのだろう。 

そして、その男は勤めを続ける内に、何があったのかは知らないが、 その権力者の身内の女性、妻か、姫か、孫娘か、 自分では決して手の届かない人物に、密かな思いを寄せてしまったのだ。 その気持ちはいつしか、相手にも通じて、 男と女性はこの世で結ばれぬ身と、 一緒に死ぬことまで考えたらしい。 だが、数日後に手に手を取って死ぬと約束した日の翌日、 女性を痛みで苦しめたくないと思った男は、あの杯を作ることを考えた。 
 ─この世で結ばれるなら、あの世でなく、自分の力で平穏な国を─
どういう仕組みかは謎だが、 男は苦心に苦心を重ねて、あの杯の中に、別世界を作った。 そして、恋しい女の手を引き、その世界に住みはじめた。 男の思いに賛同する数人の召使と共に… そこは優しい世界だった、男の思い描く素晴らしい世界だった。
そこを作った主として、その世界は男の思い描く通りとなった。
男は心優しい、争いを好まぬ人物だったらしい、 現世とは違い、杯の中の世界は、大きな諍いの無い平和な世界となった。

 
杯は、いつしか、現世からの入り口となり、 それを必要とする寂しい魂に呼ばれ、 行き場の無い者や、現世に絶望した者達を次々とつれて来たが、 男は主として、その場をうまく納め、すべては、うまくいっていた。 だだ、その男は永遠に女性とその世界で暮らすつもりだったのに、 彼女も召使も、後から来た人々も、現世と同じように年を重ねていく中、 男は年を取らなかった。主として男だけは時間が止まっていた。 年を取ったように見せかける事は出来ても、本当に老いることは無い。
愛する女が死んで、自分がそれ以上命を永らえたくなくても、後から後からやって来る現世から来た人達の主として、 生きていかなければならなかった。

主がいなくなれば、杯の中の国は滅びる、そこに住む人達も消える。
それを知っている男は、耐えた。

いったいどれだけの時が過ぎたのか?
男はやがて疲れ、何度も考えを重ね、 そして力を使い自分と血の繋がっている者を呼んだ。
血が繋がって、平穏を求める者の魂を呼んだ。
何人も何人も、縁者は呼ばれた。 幾世代も幾世代も、男に呼ばれては意向を聞かれた。
縁者の男達は、杯の中の世界を平和だと羨ましがり、
その秘密は守ると誓ったが、 そこに主として住むと言ってくれる男は長い間、現れなかった。
また時が流れた、そして、 やっと主として留まってくれると言った男が現れた。
それが… 輝也さんだ。
男は訳を話し、輝也さんに全てを託して、杯から出た。
それと同時に時間が動いて、男は塵になった。

輝也さんは、あそこに行くまでに、男に話を聞いて、
何度もあの世界と、現世を行き来し、記録をノートに残した。

あの世界は、行ったら戻れないはずなのに、小林の家、 つまり男の子孫だけは、行き来できるんだ。
きっと、わたしも、おまえも行ける。
あの日、輝也さんが行くのは、一部の男達は皆知っていたんだ。
蔵の記事も、訳を知らなかった親戚の者が大騒ぎをしなければ、きっと残らなかっただろう。

カイトおまえに、この話はいずれするつもりだった。
もう少し、おまえが大きくなったら… するつもりだった。
でも今、言わなければならない、 何故、アキラ君が、あの国に行ったのかも、教えなければならない。
杯の向こうの『ミズタマリ』と呼ばれる国に旅立ったのか…

湯船の中の父の声は淡々と静かにカイトの耳に届いた。

ざあざあと熱いシャワーがあたっているのに、 カイトの体の中心には、冷たさが、じわりと滲む。
父が話していた間、出しっぱなしのシャワーのせいで、 カイトの体を覆っていた泡はもうとっくに排水溝の中に消えていた。

「父さん… 」

濡れて雫が垂れる髪の下から、カイトにはそれしか今は言えない、 信じられない話を聞いた後に誰もがするように、呆けた顔をしていた。