無題55

ミズタマリ 2-1

「そんな… 確かに、今まで、ここにいたんだ!!」

カイトはそう言うと、首を傾げる香の横を通り抜け、 木箱の上の杯に駆け寄る。

あの時、一瞬光ったように見えた杯は、最初に見たときと同じ色合いで、 安物の玩具のように、てかてかと輝いて、そこにあった。

「水が… 」

杯を見たカイトは、思わずそう呟いた。

確かにアキラが注いだはずの水が、杯には入っていない。
恐る恐る指で杯の内側に触れても、少しも濡れていなかった。

「今日のカイト、少し変ね、病み上がりだからかな? ねえ、もう少し寝てたほうがいいんじゃないの?」

香が、蒼い顔をして杯を調べるカイトに、言う。

「こ、小林さん、この杯が、何でここに出ているか、知ってる?」

カイトはいったい何が起きているのか、確認するように香に聞いた。

「もう、また小林って言った。 ねえ、照れてるの? 自分からわたしの事、好きって言ったくせに… その杯は、カイトがわたしに見せたいって言って、自分で出したのよ、 ほら、何だか面白い秘密があるってわたしに言って、 そう誘ってから、そのままわたしを、この部屋に上がらせたじゃない。」

香は少し怒ったようで、頬を膨らませてそう答える。

「俺が、一人で、誘って… それから… どうしたの? 」

ゆっくりとカイトは聞く、問いかける自分の声が震えているのが解かる。

「何にも、ただ、その茶色い杯を木の箱にのせて、 二人でその近くに座ったの、 それから、その古いノートをわたしに読んでくれたのよ。 それは、カイトの大叔父さんが蔵の中からいなくなったって話で、 少し怪談みたいで、恐かったわ、 それから… ええと、確か、蔵から急にいなくなるなんて、 何かトリックがあるんじゃないのかと、わたしが思ってたら、 カイトが急に大きな声を出して、立ち上がったのよ。 ねえ、カイト、もしかして、急に具合が悪くなったの? 体か震えてる、今にも倒れそうよ、」

只ならぬカイトの顔色と声の変化に、 香は、膨らませた頬を元に戻して、そう答えた。

「いや、平気だよ、それじゃあ、あの、小林、いや、か香は… この部屋には、最初から君と俺だけがいたって言うんだね。」

カイトが信じられないような顔をして、香に尋ねる。

「ええ、そうよ、 ねえ、カイト、少し横になっていたほうがいいわ、 わたしはもう帰る、だから玄関の鍵を閉めたら、そのまま横になってね。 それとも、相当具合が悪そうだから、お母さんに連絡する? 確か、駅の近くの会社でお仕事してるって言ってたよね。」

香が、心配そうにカイトのそばに近寄る。

いつもはそばにいるだけで嬉しい、香の存在。
それが今は、信じられないほどに、恐ろしい…

カイトは震える体を止めることが出来ず、その場に座り込んだ。

…そのまま黙って暫く俯いていたが、 やがて、ぼんやりと香を見上げて、何とか口を開いた。

「大丈夫、急にお腹が痛くなったんだ。女の子の前だと言い出せなくてさ、 母さんには連絡しなくても平気だよ、心配させてごめん。 悪いね、帰ってくれる、トイレに入ってる音聞かれるの恥ずかしいから。」

平静を装って何とかそれだけ言った。

「そう、解かった、帰るけど、本当に大丈夫?」

玄関を出るまで、香は何度も何度も心配そうにカイトに聞く。

カイトは無言で何度もうなずき、香が出た後の玄関の扉の鍵を閉めると。

そこにあったはずのアキラの靴が無いのを見て、 その場で、立ったまま声を上げて、泣いた。