無題55

ミズタマリ 2-4

「カイト、どうしたの?」

カイトの母が、心配そうな声で聞きながら駆け寄る。

夕方、仕事から帰ってすぐ、薄暗い居間の中、 ソファーの上で膝を抱えるようにして座るカイトを見て、母は顔色を変えた。

「何でもない、まだ風邪が治りきってなかったんだ。」

そうカイトは答えて、学校を早退したことを母に告げた。

「だから、もう一日寝てなさいって言ったのに… まあ、済んだことをぶつぶつ言ってもしょうがないわ、 少しでも食べて、早く横になりなさい、消化のいいもの作るから、 でも、何だか、昨日より顔色が悪いわねえ、熱は本当に無いの? あまり辛いようだったら、今から病院へ行きましょう。」

母は、そうカイトに言った。

「大丈夫だよ、学校で少し動きすぎたんだ、ほら、体育祭が近いだろ、 休み時間とか、その練習も兼ねて、皆と走っていたんだよ。
あんまり夢中で、自分が昨日まで具合が悪いことを忘れてて、 ねえ、明日から気をつけるから、病院は勘弁してよ。」

カイトは母に嘘をついて、そう答えた。
本当は、 朝からアキラが消えたことばかり考えて頭が割れそうなほど悩み。
そのせいで、胃がキリキリと痛んで、気分は最悪だった。
級友と雑談はしたが、休み時間に呼ばれても外には行かなかった。
周りの自分に対する変化に耐えられず、押しつぶされそうな一日だった。

「そう、じゃあ、とりあえず夕食を作るわね。」

カイトの返事に納得したのか、母はそう言って、すぐ隣の台所へ向かう。

「でも、辛くなったら隠さずに言うのよ。いつでも病院へ連れて行くから、」

カウンターの上の、台所に通じる細長い空間から顔を覗かせて、
水音をたてて手を動かしながら、母はカイトに念を押した。

「どうした? 箸が進まないじゃないか?」

夕食の食卓で、今日は帰りが珍しく早かった父がカイトに聞く。

「あ、うん、食べる時はよく噛むといいって、さっきテレビで聞いたから…」

カイトは笑顔を作り、機械的に口を動かして、そう答えた。

「まあ、わたしもそれ、聞いたことがあるわ。 確か、顎の発達とか、ボケ予防とか、ダイエットにもいいらしいわよね。」

母が、そう、うなずいて、自分も口を何度も動かす。

「確かに消化にも良さそうだな。おれには無理みたいだが、」

真面目な顔で食べ物を数度噛んでみた父は、すぐに飲み込んでしまい、 ばつが悪そうに笑って、二人にそう言った。

明るい父と母のやり取りを聞いていても、カイトの気持ちは暗い。
さっきから食べているものの味など解からない、 父と母に心配をかけまいとして、ただ食べ物を口に入れ胃に運んでいる。

「そうそう、そういえばね… 」

食事の合間に母が父に何かを話しかけたとき、電話が鳴った。
言いかけた言葉を止めて、母がそれに出る。

「はい、小林です。… ええ、… そうですか、まあ、… 大変。
解かりました … 大丈夫だと思います。… はい。」 

受話器を置いた母が、父に向かって、

「ねえ、あなた、今度の町会の運動会なんだけど、 同じチームの松井さんね、 ご主人が仕事の都合で、どうしてもその日、出れないんだそうよ。 それでね、あなたリレーの補欠だったけど、走って欲しいんですって、 今、頼まれて困ってるようだから返事しちゃったけど、いいかしら?」

母は、父にそう尋ねる。

「いいよ、確かに松井さんの足の速さには及ばないけど、 これでも、結構昔から足の速さには自身があるんだ。走るのも好きだし、
任せてくれ、…でも、奥さん。 おれに相談しないで、今の話を一人で決めたんだから、 ここは、何か、サービスがあってもいいような気がするんだが?」

父がチラチラと台所を見ながら言うと。

「解かりました、取って置きのお酒を用意しますね。」

母は苦笑して、台所へ向かう。  それを見て、父が微笑んだ。

二人のやり取りをぼんやりと聞いていたカイトは、 まだ機械的に食べ物を口に入れては、噛んで飲み込んでいた。

「松井さんの代わりかぁ… 随分なプレッシャーだな、走れるかな。 少し練習しないとなぁ、転んだら恥ずかしいし、 松井さんの子供のアキラくんの方がおれより早いんじゃないかな?」

父は、運動会の事を考えているらしく、そう独り言を呟いた。

「お父さん!! アキラを知ってるの!!」

突然、カイトが立ち上がって父に聞く。

「ああ、おまえと同じクラスの松井アキラ君だろ? 知ってるよ。」

平然と答える父のその声に、カイトの全身が震えた。