無題55

ミズタマリ 3-2

「カイト、アキラ君は、この世に居たくない理由があったんだよ。」

呆けたカイトの耳に父の声が聞こえる。

カイトは、そんな事は絶対に考えられないと、 もう一度、今度は静かに、その理由を父に教えた。

それを黙って聞いていた父は、 いつまでも洗い場にいてはカイトの体が冷えるからと、 湯船に入るよう勧め。
カイトが自分の横に座って湯に浸かると、唇を噛んで妙な顔をした。

「いいか、カイト。これはここだけの話だぞ。」

湯船に入ったことで横顔しか見えない父の顔がはっきりと曇る。

カイトは、さっきの話をした時よりも遥かに暗い父の表情に押されて、 ただ、うなずく事しかできなかった。

「カイト、アキラ君の家に行ったことはあるかい?」

父の問いに、カイトは首を横に振る。
言われて初めて、カイトはアキラが何度も遊びに来たのに、 確かに家に一度も行ったことが無いのに気がついた。


「わたしは、松井さんのご主人と町会の関係で少し深く付き合ったんだが、 毎年恒例の夏祭りの何度目かの打ち上げの帰り、 二人で飲もうと誘われてね、 その時、泥酔したご主人がわたしに、泣きながら話したんだ。 

アキラ君は、彼の子供では無いと。 奥さんが彼との婚約時代に他の男性との間に作った子供だと。 それは、アキラ君が赤ん坊の時は、解からなかったらしいが、 小学校に入る前に、アキラ君が大怪我をして、 その時調べた血液型で解かったそうだ。

 奥さんに問いただすと、彼女はそれを認め、松井さんはそれを、何とか許したが、 やはり心の奥では、その事実がどうしても、引っかかり、 家に帰る足が段々と遅くなり、早く帰っても、 以前のような生活には、戻れなかったらしい。 

家から笑顔が消えて、それに不満を持った奥さんは、 まだ幼稚園児のアキラ君に、本当の事を話してしまった。

彼に、生まれてこなければ良かったと、言ったそうだ。

そこまで聞いて、わたしは、嘘だと思った。
何しろアキラ君はお父さんに何処と無く似ているからね。
それに奥さんも、外で話をする時は、別段普通だったし、 松井さんが、わたしを担いでると思ったんだ。

でも、やはりそれは、事実だった。悲しい事実だった。
その時聞いた話は、あまりに酷い。 カイト…そこは、どうしても聞かないでくれ。

それから、アキラ君は、 親に気に入られようと、勉強も、運動も、一生懸命頑張った。
きっと両親に少しでも褒めて欲しかったんだと思う。
どこの子供よりも、良い子だと、愛して欲しかったんだと思う。

松井さんも、健気なその気持ちが、痛いほど解かると言っていたよ。 だが、彼が息子を褒めると、すっかりひねくれた奥さんが、
その時は笑顔を作り、話を合わせても、 息子と二人になった時、アキラ君を責めるんだそうだ。
早く帰った時や、自分が少し席を外して戻った時。
強い口調で、アキラ君を責めている言葉を何度も聞いたらしい。
それは、とても言えないような酷い言葉で、松井さんが止めても、どうもその時だけ止めて、悲しい事だかずっと続いていたらしいんだ。
アキラ君が、どんなに勉強を頑張っても、運動を頑張っても。
松井さんが、本当の子供のように、心から彼を褒めても。

奥さんは… アキラくんのお母さんは、実の子供のアキラ君を責めた。
勿論、食事や小遣いは、普通に与えていただろう。
ただ生きていくだけだったら、何も不自由はしないだろう。

でも、わたしは、アキラ君には毎日が地獄だったと思う。

わたしは、思い切って児童相談所に連絡を入れたんだよ。
ところが、アキラ君の学校での明るい態度と、 何処を調べても何の傷も無い体に、その話は信じてもらえなくて、 それで、その話は聞き届けてもらえなかった。

だが、アキラ君はずっと、助けを求めていたんだ。
だから、わたしは、カイトの話を聞いて、
アキラ君が自分で望んでこの世界から消えたとしか思えないんだ。
毎日、毎日、責められるのに耐えられなかったんだろう。
それを表に出して、両親を苦しめることも彼には出来なかったんだろう。
まったく、大人の都合だよ、アキラ君には何の罪も無い。

だが、どんなことをしても、この世界にいる以上、 出生の秘密は、ずっと彼について回る。避けられないだろう。

だから… 彼は別の世界に逃げ出したんだ。かわいそうに。」

カイトの父は、静かにそれだけ言うと。
まるで、自分が悪い事をしたように、カイトに深く頭を下げた。

「父さん… アキラは向こうで幸せになれるんだろうか?」

髪から滴った雫なのか、それとも涙なのか、
水滴をのせた目元を赤くして、カイトが、静かに父に聞いた。