無題55

ミズタマリ 2-7

「カイト、あの杯と一緒にあった古いノートを全部読んだか?」

父が体に泡をつけて腕を擦りながら、湯船の中のカイトに聞く。

「ううん、全部は読んでない。 夏に初めて押入れから出したときに、興味本位でざっと見ただけだよ。 あの時、アキラは気になる事が書いてあったみたいで、 妙に黙って真剣に読んでいたけれど、 俺は、隣で何かを食べながら漫画を読んでいたと思う。」

カイトは、あの時の事を思い出して、そう答えた。

最初は、カイトの話を本気にしていなくて、ふざけていたアキラ。

あのノートを見せた後、急に目を輝かせ読み始めたアキラ。 

それからしばらく、カイトが何を言っても返事をしなかったアキラ。

…あの時、カイトはアキラが何度話しかけても答えないので、 何となくつまらなかったのと同時に、 ノートを読み進むたびに、次第に強くなるアキラの瞳の輝きや様子が、恐くなって、 それで、 あれから杯の事をアキラから何度言われても避けていたのだった。

「そうか、あれは、欲する人を引き寄せるらしいからな…」

考え込むカイトに、今度は髪を洗いながら父は言う。

「欲するって? 違うよ、ただの冒険心だよ。 だって、父さん、アキラには、何も悩みなんてないよ、 運動だって人よりできるし、成績だって良かった。 よく喋るし、友達だって沢山いたよ、他の世界に行きたがるなんで、 アキラに限って、そんな馬鹿な事、考えたりしないよ!」

カイトがシャワーで髪の泡を流す父に噛み付くように言う。

「コラ、あんまり大きな声を出すなよ、母さんに聞こえる。」

そう小声で注意をしながら、父は洗い終わった体を湯船に沈め、代わりにカイトが体を洗いに、湯船から出た。

カイトは父に注意を受けて、うなだれて、黙ったまま体を洗いはじめる。

「カイト、父さんは、ある事を知っていて、それをおまえにす。  それを聞けば、カイトが思い悩んでいることが少しは減ると思う。でもいいか、これから話す話は自分の胸にしまっておくんだ。 本当は、もう少し経ってから話すつもりだったが、 こんなことがあった以上、知っていたほうが気が楽かもしれない。 あのな、カイト、もうわかっていると思うが、あの杯は、異界に通じている。」

思案深げな顔をして、湯船に入っていた父が、静かにカイトにそう告げる。

「あの杯の事は、 この小林の家の、ほぼ直系の男子にしか教えられていない。 随分昔からあるらしいが、いつからあるのかはもう誰も解からない。 伝え聞いた話によると、 何代も何代も前の先祖の誰かが、あれを作ったらしいんだ。」

カイトの体に付いた汚れた泡を落とすためのシャワーの音が、 浴室に響く合間を縫うように、静かに父は話を続けた。