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ラジオの隙間から

マーブルの美しい表紙は、すっかりふやけて歪んでしまった。

お気に入りの文庫本を右手に、ほんのりとリンスの香りのするタオルを左手に浴室を出る。瞬間、湯気が身体から立ち昇り、火照った頬が冷やされて濡れた。

浴室を出てすぐ右には、以前祖母が使っていた小さな和室がある。襖の隙間からは、ず、ずう、父の不規則ないびきに混じって、付けっぱなしの有線の音が漏れていた。それは、あの頃、父がよく車の中で流していたものだ。


そこには、色とりどりの靴がたくさんあった。

皆足並みはばらばらで、しっちゃかめっちゃかな方向に進んでゆくのに、決してぶつかりはしないのが不思議でたまらなかった。

その靴からにょっきりと生えた脚たちの森の中で、私はすっかりくたびれていた。やっとの思いで脚の隙間をすり抜けて、隅っこの湿った場所に並んでいるカラフルでつるつるとした石の上によいしょと腰掛ける。

脚を宙にぶらつかせると、スニーカーの裏がじんじん、痛んだ。

乗ってきたものはどこに停めてあるのか忘れてしまったけれど、入り口まで大分歩いた気がする。入り口の前で待っていようか。でも、入り口はどこにあったっけ。

脚のすねがずきずきと痛む。いつもここは、歩きすぎた日は、必ず夕方になると痛くなる。そんな時は寝る前に小さく切った湿布を貼ってもらって、痛くなくなるまでさすってもらうのだけれど。

ふいに悲しくなって、俯いて目をぎゅっと瞑る。そうすると、周りの音がいっそう騒がしくなって聴こえた。楽しげな音楽、話し声、叫んでいる声、地面を踏みならす音、全部の音が溶け合って混ざり合って、ごおんごおん、頭に響く。


「見て、かわいいお姫様がいる」


突き刺さるような甲高い声に驚いて顔をあげると、短いスカートにだぼだぼの靴下を履いた女の人二人がこちらを見て笑っていた。私は何だか恥ずかしくなって、ドレスの裾を引っ張って、薄汚れたスニーカーを隠そうとした。


「ねえ、この子ひとりだよ。警備員呼んだ方がいいかなあ」


ケイビイン。恐ろしい響きにぶるりとする。私は渇いてかさかさになった喉から、絞るようにして声を出した。


「……もうすぐ来るので……」


言いながら、瞳の奥からじわじわと波がやってきた。私は口の中で、舌を天井にしっかりと押し付けて、嗚咽が漏れそうになるのを必死に抑えた。そのときだ。


「ああ、いた!!」


聞き慣れた声に、思わず脚の痛みを忘れて石から飛び降りる。埃臭い、色褪せたジーンズに頬を擦り付け、脚に手を回して必死にしがみ付いた。

袖を肩まで捲った白いシャツを身に纏った王子は、反射的に両腕を挙げた私の脇の下にするりと両手を差し入れて持ち上げると、右腕に抱きかかえた。一瞬にしてあたたかさに包まれた私は、固い鎖骨に噛み付くようにして泣いた。


彼は耳元で、ぶつぶつと文句を言いながら、涙と涎でべたべたになった私の顔をタオルで拭いて、ドレスが引っかからないように気をつけながら、私を小さな馬車に乗せた。


馬車は、彼の爪先によってたまにカチリと止められながらも、真っ暗な闇にきらきらと鮮やかに輝く光の中をがらがらと行く。私はすっかり安心して、雫の残る睫毛を伏せた。


眠りについた私を、彼はそっと小さな馬車から降ろし、大きな馬車に乗せる。馬車は、ネオンライトの中を音もなく走る。ごうごう鳴り響く窓の外の音をかき消すように、馬車の中には大音量の音楽が響いていた。それは、父の好きな歌だった。


「●●県の××さん、リクエストありがとうございました。それでは、次のリクエストです。」


私は思い出したように、タオルを毛先に滑らせる。すっかり床に張り付いてしまった裸足を引っぺがしながら、ぺたぺたと長い廊下を歩き出した。青白い障子が闇に染まる。

ず、ずう。ず、ずずう。不規則な音が、夜に溶けてゆく。

執筆日:2013年4月 小さい頃のディズニーランドでの思い出。

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