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『元・殺し屋の少年』

元・殺し屋の少年               森 晶麿



 殺し屋をやめて初めての春休みだ。来年は受験が控えている。こんなにも長い間、誰も殺さずにいていいなんて、何だか不思議な気がした。クラスメイトの宮地が終業式の日に「これでおまえも普通の高校生だな」と笑った。でもわかっている。僕は永遠に「元・殺し屋」として生きていくことになるのだ。それに、僕に父親を殺された生徒会長の西田皆実さんは僕が稼業をやめても許さないだろう。
 市立図書館で偶然西田さんと会った。彼女は通りすがりに「なぜやめたの?」と尋ねた。どうせやめるなら父を殺す前にやめればよかったのに、と言いたげだった。
「〈夜〉のメンバーをすべて殺したから」
 彼女は僕の頬を叩いて消えた。彼女の父は〈夜〉の隊長だった。最後までしぶとく攻撃をかわし、勇敢に戦っていた。僕が乱反射移動を用いて隣に立ち、耳の穴から太陽を流し込むまで、きっと僕を殺そうと無我夢中だったに違いない。耳から入った太陽は一瞬で西田さんの父親を溶かした。同時に福音のメロディがイヤホンから流れてきたのをよく覚えている。オメデトウ、任務完了。
 かくして、僕は「元・殺し屋」となった──はずだった。



 自習していると〈朝〉からメール。〈夜〉の生き残りがいるという。無視して自習する。メールは鳴りやまない。合計三十回目のメールを無視したら、いよいよ電話がかかってきた。僕は廊下に出た。
「〈夜〉の生き残りがいる。メールを見ていないの?」
 声ですぐにカナだとわかった。カナはいまだに僕の保護者気取りなんだろうか。
「わるいけど、もう僕は殺し屋じゃないよ」
「〈夜〉を全滅させるまでは、あなたの任は解かれない」
「ボスからじきじきに殺し屋免許失効証書をもらってるよ」
「失効証書の取消証が発行された。命に背けば、君は世界のどこにいても生きていくのが難しくなる」
「脅す気? その命令でたくさん死人が出るよ? 僕だってただでは殺されない」
「望むところね。命令は絶対よ。例外は認められないの。背く気なら、君の大事なものから順に奪う。たとえば、そうね、君は市立図書館にいて、さっき女の子に頬を黙ってぶたれた。黙って頬をぶたせるのは相手に気がある証拠。ならば我々は彼女をまず殺そうかな」
 西田さんに気があるかどうかはよくわからない。でも、西田さんを殺させるわけにはいかない。
「〈夜〉の生き残りっていうのは、どこにいるの?」
「やる気になってくれてよかった。大丈夫。この任務はすぐに済むはずよ。何しろ標的は君の学校にいることがわかっている。背中に二つの月のタトゥーのある女がそれ。〈夜〉の中で、彼女は〈ダブルムーン〉と呼ばれている。心当たりは?」
 あるわけがない。高校の制服は背中があいているわけではない。探してみる、とだけ答えて電話を切った。十分も通話していたようだ。ふと、視線に気づいて廊下の果てを見ると西田さんが僕を見ていた。僕と目が合うと、彼女は網から逃れる蝶のように飛び立った。


 3


〈ダブル・ムーン〉探しは簡単ではなかった。更衣室を覗くわけにもいかない。もっぱら調査は聞き込み中心となった。春休みの校内は人が少ない分話しかけやすかった。
「それってどういう質問なの? まさかあなたはまだ殺し屋をやめてないの?」
 クラスメイトの筅木さんは眉をひそめた。彼女はおしゃべりだ。もしも殺し屋稼業にカムバックしたなんてことがバレたら、一日のうちに噂が回る。そうなれば、この一件が終わってまた元・殺し屋に戻れたとしても、オオカミ少年扱いされてしまうだろう。
「そうじゃなくて、以前どこかのパーティーで背中に月のタトゥーのある子にすごく惹かれたことがあるんだ。それで、また出会えないかなって思ってね」
 我ながら歯の浮くような作り話だったが、本当のことを打ち明けるよりずっとマシだった。筅木さんは、なぜか同情的な顔をした。
「そっか、あなたはこれまで恋する暇なんてなかったもんね。わかった、応援する」
 誤解でも何でもこの際利用しない手はなかった。
「月かどうかはわからないけど、この高校で夜な夜な〈モンスター〉っていうクラブハウスに入り浸ってる〈脂肪の塊〉って集団がいる。そいつらはみんな背中に思い思いのタトゥーをしてるって話だよ」
「なるほど。思い思いのね。ありがとう」
「でも、間違ってもタトゥーについて尋ねてまわるなんて馬鹿な真似はよしなさいね」
「どうして?」
「顔を忘れられてるなんて、声をかける前から恋の終わりが見えてるわ」
 僕は曖昧に頷いた。


 4


〈脂肪の塊〉はクラブハウスに顔を出す前に、かならずスーパー・マルナカの駐車場に集まり、お惣菜コーナーで買った牛丼を食べるという話なので、僕は夕方になるとスーパー・マルナカへ向かった。派手な絵柄のジャージを着た男女が五名ほどいる。全身、開けられるかぎりの穴が開いており、ハンガーを引っかける場所には困らなそうに見えた。
「君たちの中に、月のタトゥーをしてる子はいる?」
「いたらどうだってんだよ」とすごみながら、リーダーらしき男が僕の顔を覗き込んだ。「おまえ、元・殺し屋だろ、何の用だ? わかってるよな? 元・殺し屋が人に手を上げたら、どんな厳罰が待ってるか」
 たしょうは法律の知識があるらしい。しかし、それだけに残念だった。仕方なく、コンクリートの下に眠る樹木たちにコンクリートを突き破って男の脚を捕えさせた。たちまち男は動けなくなり、焦りの表情が浮かぶ。牛丼は落下して植物の養分となった。僕は男の口を開かせ、太陽をうずたかく掲げた。
「僕に厳罰が待ってるとして、溶けて消えた君にその事実が関係あるだろうか?」
「わうはっは」わるかった、と言ったのだろう。男の口を自由にしてやった。
 まわりの者たちは、いつの間にか逃げてしまっていなくなっている。
「メンバーの背中のタトゥーはだいたい知ってる。月も何人かいるよ」
 その全員の名前を教えてもらうと、僕は礼を言ってその場から離れた。
「おい、この植物どうしてくれんだよ?」
「自力でどうにかしなよ。もうそいつらは僕の意志と関係なく動く。交渉次第では……」
 言いかけたとき、植物が男を飲み込んでふたたびコンクリートの下へと沈み込んだ。交渉不成立。こういうこともある。〈夜〉の組織を一気に殲滅へと追い込んだのは、人体に太陽を内蔵する新発想だった。
 僕ら殺し屋には小さな太陽の弾丸が内蔵される。その熱量を自在にコントロールして植物を倍速で培養することも可能だが、いったん育った植物がいつまでも僕のいうことを聞くわけでもない。とにかく、こうして月のタトゥーをもつ女リストは手に入った。ナオミ、ミト、トワ、ワカコ。まるでしりとりでもしているような名前だが、いずれも全校生徒の名簿にその名前を確認することができた。
 僕はマルナカで最後の一個の牛丼を買って腹ごしらえをすると、〈モンスター〉へ向かった。
 ところが、〈モンスター〉から百メートルほど離れたファミマの前で、思わぬ人物に声をかけられた。
「どうしてあなたがこんなところにいるのよ?」
 私服を着た西田さんが、ファミチキをかじりながら、僕を恨めし気な顔で見ていた。


 5


 西田さんの全身を包んだグレイのスーツは、ミラーボールを反射して存在を消せるインビジブルスーツと呼ばれる製品と思われた。つまり、彼女はこれから〈モンスター〉に行こうとしている。だが踊りに行くのでもナンパされに行くのでもない。姿を消して何かべつの目的を達成するためだろう。
「西田さんは〈モンスター〉で何をするつもりなの?」
「あなたに関係ないでしょ、人殺し」
「じゃあ僕も理由を言う必要はないね」
 西田さんは不機嫌そうに鼻を鳴らした。よくみれば、彼女の後ろには彼女の連れらしき人物がいた。よく西田さんがトモカと呼んでいる隣のクラスの子。僕らは口もきかず同じ方向に向かって歩き出した。
「ついてこないで」
 途中で西田さんが僕に向かって怒鳴ったけど、目的地が一緒なんだから仕方がない。
「僕も君たちもクラブハウスに向かってるだけだよ。ついていってるわけじゃない」
「同じことよ。べつの場所へ行って」
「この街にクラブハウスは他にないと思うけど」
「人殺しは出入り禁止よ」
「僕はいまは人殺しじゃないよ」
「そういう言い方なら、大抵の殺人犯が一般人ね」
 僕は黙った。これ以上西田さんと話す意味はなさそうだった。ただ、わずか斜め後ろを歩きながら、彼女のような優等生がクラブハウスに向かう意図を考えていた。それはどう考えても生徒会長としての目的としか考えられなかった。クラブ通いは校則で禁止されている。彼女はいわば学校にこの任務を任されているのに違いない。僕はその背後を歩くトモカに話しかけた。
「君も西田さんに連れ出されたの?」
 彼女も同じ灰色のスーツを着ていた。トモカは小さくコクリと頷いた。考えてみれば、僕は彼女がしゃべっているのを見たことがない。まるで西田さんのキーホルダーのようだ。ずんずん先へ進む西田さんに聞こえないくらい小さい声で僕はトモカに尋ねた。
「クラブに集まってる不良を学校に報告するんだね?」
 トモカは驚いたように僕を見た。それから頬を赤らめながら、小さく頷いた。
「仕方ないの。うちの高校の生徒が、先月何人か薬物依存になったから」
 これは人助けの行為だ、と彼女は信じているのだろう。そうでないとは断言できない。ただ僕はいかなる正義も頭からは信用できない。〈朝〉にだって〈夜〉にだってそれぞれの正義の理屈があった。
 奇しくも、〈朝〉の命令と学校の命令が同じ場所に重なってしまったわけだが、考えてみれば不思議なことではない。悪所は、とどのつまり自分を正義と信じる組織にとっては攻撃の対象となる。
 かつて〈モンスター〉は〈夜〉のメンバーが常連客だった。いまは〈夜〉が全滅したせいで経営難だという話だ。原子力発電の完全停止による電気代の高騰も負担に拍車をかけているものと思われる。〈朝〉が公明正大な組織だとしても、それで誰にでも感謝されるというわけではない。万人に通じる正義なんてものはないのだ。だからだろう。クラブのオーナーは僕の顔をひと目見て「おまえは入れない」と言った。僕は〈殺し屋免許失効証〉を見せた。実際にはこの失効証自体が失効しているのだが、そんなことはわかりはしない。それでも男は僕を入れることを渋った。
「元だろうと現だろうと俺にとっちゃ同じさ。〈朝〉のせいでうちがどんだけの不利益を被ったか」
「同情しますよ。僕の本意でもない。もしこれで気が変わるなら」
 僕は通常の入場料の三倍の金額を彼の懐に入れた。男は「あと二枚」と要求してきた。黙って二枚追加し、ようやく入場できた。すでに西田さんとトモカの姿は見えない。インビジブルスーツのせいだ。僕は店内の客に〈脂肪の塊〉の連中がどこにいるのかと尋ねた。一人の男が、あいつら絡むと厄介だぜ、と言いながら店の奥の席を教えてくれた。ぜんぶで十人。うち何人かはマルナカの前にいた顔だ。彼らは僕の姿を見ると恐怖に顔を硬直させた。
「ナオミ、ミト、トワ、ワカコ」
 名前を羅列すると、四人の女が順にぴくりと反応した。うち三人はがたがたと震えている。最後の一人、ワカコだけは感情をうまく殺していた。〈夜〉のメンバーなら感情を簡単には表に出さない。
「ワカコ、ちょっと来てくれるか?」
「おい、てめぇ何なんだ一体!」
 ワカコの隣にいた男がいきり立ったので、とりあえず目を発光させて男の視力を一時的に奪っておいた。男はうめき声を上げてその場にうずくまった。ワカコは抵抗しないで僕についてきた。
「……何なの? わたしとやりたいわけ?」
「やりたい?」
「だから、セックスを」
 答えるのが馬鹿らしくて、とりあえずトイレの前まで連れて行った。彼女は自分から壁に手をつき、スカートをたくし上げ、「早く済ませて」と言った。僕は彼女のうしろ髪を掻き分け、シャツの襟を引っ張って背中を覗いた。僕の視覚情報を、〈朝〉の本部に伝達する。たしかに月のタトゥーがそこにはあった。だが、本部からの返事はことのほか早かった。「その子じゃないわ」とカナ。
「ごめん、人違いだった」
「は? なにそれ……」
「わるかったよ」
 彼女は舌打ちをして去っていった。
 そのとき、背後から声がした。
「ねえ、あなたはこれからどんな一生を送りたいの?」
 トモカの声だった。振り返っても彼女の姿は見えなかった。
「ふつうの一生だよ。貧乏でも何でも、とにかく人を殺さずに生きていく。それだけの平凡な一生」
「世界のそこかしこで紛争があるのに、そんな人生でいいの?」
 インビジブルスーツのトモカは、姿が見えないぶん、声のかわいさが目立った。朝の霞をスプーンで掬ったような声だ、と思った。
「世界のそこかしこのことは、そこかしこに任せるよ。僕は何もない平凡が好きだよ」
「そう。あなたなら、皆実を任せられそう」
「親友のお墨付きとはうれしいけど、あいにく僕は西田さんから嫌われてるよ」
「知らないの? 彼女は入学当初、あなたのことが好きだったのよ。その後、すぐに殺し屋だとわかって距離を置いたようだったけど」
 僕は入学当初はまだ西田さんのことを知らない。一方的に存在を知られていたということか。
「皆美ならカウンターにいるから行ってあげて。きっとあなたと本当は話したいはず」
「……ありがとう」
 どうするべきか迷った。でも、とりあえず今の僕にできることが他にあるわけではなかった。手がかりはすべて探し終えたのだ。戻ってあの怯えていた女たちの中から〈夜〉のメンバーを探しても見つかるとは思えない。べつの行動を考えなければ。
 カウンターに行くと、カクテルグラスが宙を舞っていた。
「そのスーツを着てるときにカクテルなんか飲んだら意味がないよ」
「うるさいわね。あなたに何の関係があるのよ」
 西田さんはすでに少し酔っているような声をしていた。
「潜入捜査はどう? うまくいったのかな?」
「よけいなお世話よ。今のところ〈脂肪の塊〉のゲスどもを除けば、うちの生徒はいないわ。これは喜ぶべきことよ。この闇の巣窟の餌食になっている生徒がいないってことだもの」
「〈夜〉がいなくなったからね。ここもたしょうはマシになったんだ」
 彼女は僕の頬を叩いた。前回とは反対側の頬だ。
「ごめん。君のお父さんは立派な戦士だった。僕と君のお父さんは戦いながら、相手を認め合っていたと思う。そういうのがわかる時があるんだ。出会い方さえ違っていたら、きっといい同僚になれていた」
「もうその話はいいわ。不愉快よ。でも私もあなたに対する態度を改めなくちゃね。私だってあなたが好きで父を殺したんじゃないってことくらいわかってる。そして、あなたはもう殺し屋ではない。なら、それを受け止めなくちゃ。もう少しだけ待ってくれる? 私、何でも切り替えに時間がかかるタチなの」
「いくらでも待つよ。ところで、君が最初に僕を認識したのはいつ?」
「何よ急に。そんなの私もあなたも一緒でしょ。入学式の一週間後に開かれた百人一首大会。あれで私にボロカスに負けた愚か者については、そりゃあ名前まで記憶したに決まってるじゃないの。あなたも自分を完膚なきまでに叩きのめした女の名前をそのときに脳裏に刻んだはずよ」
「……そうだったね」
 僕はそんな大会のことすら今の今まで忘れていた。何しろ、あの日は大会の最中に仕事の一報が飛び込んできた。だから、彼女との試合の最中も、早く試合を終わらすことしか念頭になくて相手の顔なんかろくに覚えちゃいなかったのだ。ただ、彼女が試合に熱中するあまり大股を開いて座っていたこと、赤い下着がみえていて思わず顔を背けたことは覚えていた。あれが、西田さんか。
「もし君が僕を許してくれる日がきたら、また百人一首の相手をしてよ」
「考えておくわ。私が雑魚の相手をしたい気分になるかはわからないけど」
 またカクテルグラスが宙に浮かび、量が見る間に減った。
「そろそろ引き上げるわ。明日も早い……何、これ?」
 その時、ミラーボールの電気が切れ、辺りは闇に包まれた。〈夜〉のメンバーだけがもつ〈停電〉という能力。そこかしこで悲鳴と肉のちぎれる音。すべての影が統一され、奴の意のままになる。つまり、ここにいる人間すべてが〈夜〉のメンバーの至近距離にいる。誰の命を奪うかは〈夜〉の意志ひとつ。
 ここで太陽を放っても、影をすべて焼き切ることはできない。本体を見つけるしかない。それまではとにかくノーマルな精神でいること。
「ついてきて」手探りで西田さんの手をとった。ひんやりとしている。
「トモカを探さないと。きっとあの子怯えてる」
「そうだね。急ごう。ここは危険だ」
 本当はトモカを探している場合じゃなかった。影の本体を探さなくては。だが、いま西田さんの手を離すわけにはいかない。〈夜〉の生き残りが無差別に殺人を愉しむ気なら、西田さんだって危ない。インビジブルスーツなんて、〈夜〉の奴らからしたら子どもの玩具みたいなもので何の効果もないのだ。
「彼女は君と同じインビジブルスーツを着てるよね。どうやったら見つけられる?」
〈朝〉の能力を使えば、もちろんすぐにわかる。だが、いまそれを使うのは危険すぎた。
「トモカを見つけるのは簡単よ。呼べばいいの。〈月の平方さん〉って」
「〈月のヘーホーさん〉?」
「彼女の名前よ。月を二つ書いて朋、それに香りという字。月×月だから、月の平方さん」
「なるほど」
 月と月。二つの月のタトゥー。敵はすぐそこにいたようだ。
 それから西田さんは、〈月の平方さーん〉と呼んだ。二回呼んだが、トモカは返事をしなかった。それもそのはず、彼女はいま殺戮の使徒となっている。
「早く出てくればいいのに。あの子、あなたのこと好きなのよ。親友の私にはわかる。あの子のことは昔から何でもわかるの。この一週間はとくにあなたの話題ばかりだったんだから。どうして応答しないのかしら? もう一回呼んでみようかな……」
「やめよう」
 その時、闇の中を、二つの月がゆらゆらと蠢くのがみえた。〈夜〉としての任務を遂行するために窮屈なインビジブルスーツを脱ぎ捨てたトモカの背中に光る、二つの月だ。
 躊躇はしなかった。やるべき行動は一つしかなかったのだ。
たとえ、その相手が本当に僕のことを好きな女の子だったとしても。
 次の瞬間、床が裂ける音がして、樹木が躍動するめきめきという音とともに、二つの月は動きを固定された。植物が足に絡みついたのだ。僕は西田さんの手を離し、乱反射移動で一気に二つの月のもとへと距離を詰めた。トモカはあの朝の霞をスプーンで掬ったような声で僕を制した。
「邪魔をしないで。ここで歴史的なクーデターを起こすことが重要なの。それこそが……」
 僕は相手が最後まで話すより前にその口に太陽を流し込んだ。無我夢中で流し込んだせいか彼女の身体は内側から光り、一瞬だけ美しいイルミネーションとなり、やがて溶けて消えた。
 たぶん、こうなることをトモカは予測していたはずだ。だからこそ、西田さんを僕に託そうとした。
 やがて、ミラーボールが光を取り戻した。周囲には死体がゴロゴロしており、そこかしこで悲鳴が洩れた。僕は西田さんのもとに戻り、「外へ出よう」と手を引いた。だが、彼女は僕の手を払いのけた。
「これぜんぶ、あなたがやったのね?」
「……ちがう。これは君の……」
「トモカはどこへ行ったの? トモカも殺したの?」
 トモカも殺した──これは明確にちがう。僕が殺したのはトモカだけなのだから。けれど、そんなことをいま説明しても、西田さんには理解してもらえそうになかった。
「ごめん。こうするしかなかったんだ」
 彼女はその場にくずおれた。誰かが彼女を抱きしめるべきだった。僕以外の、誰かが。イヤホンから福音が流れた。オメデトウ、任務完了という機械音声。そのあとで、カナがしゃべった。
「これで君は今度こそ、正真正銘の元・殺し屋よ。つらかったでしょうね。だけどもうおしま……」
 僕は途中でイヤホンを外した。

 
 6


 そろそろあれから一カ月が経つ。
 春休みは終わって、新学期が始まったけれど、僕はまだそのへんに咲いているはずの桜さえ視界に入らないほど疲弊しきっている。精神的な疲労だ。〈モンスター〉での騒動は、すべて殺し屋としての僕の最後の仕事ということにされ、死者は全員、〈夜〉の組織だったことにされた。カナの判断だった。
 トモカの起こそうとしたクーデターについては何も知られないほうが長期的平和のためにはよいということだったが、結果として僕はクラスメイトから無視されるようになった。殺し屋を引退したふりをして皆を騙し、そのうえ同じ高校の生徒を殺害したという最悪のレッテルを貼られたせいだ。
 そして、西田さんは、もう僕と廊下で会っても、目を合わせようとさえしない。
「君が社会復帰できるように、できるかぎりの協力は惜しまないつもりよ」
「くそ喰らえだよ。あなたにできることなんて何もない。もう連絡はしてこないで」
 僕はしつこく連絡してくるカナにそう伝えた。
「わかった。でも何か必要なものがあれば、何でも揃えてあげる」
 相変わらず、カナは母親気取りのままだ。どうせカナより上にいる人間たちは、また次なる〈夜〉の芽がどこかに伸びてくれば、僕を呼び出す気でいるのだろう。カナにはそれがわかっているのだ。
 いつか僕は辿り着けるだろうか。
 トモカと約束した、平凡な世界に?
 いまのところ、僕はそんな「いつか」のためにありきたりでつまらない勉強をしながら、一日の空白を埋める趣味を探している。でも、本も絵も音楽も、黒胆汁を薄める効果はなさそうだ。
 だから今日、僕はカナにメールを打った。
 猫を飼いたい、と。カナは至急用意する、と約束してくれた。明日、ヤマト便で届くらしい。ひとまず、その到着を待つあいだは、少しばかり憂鬱が遠のいているような気がしているが、どうだろうか。
 

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