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ホラー掌篇「となりの家の子」

 出勤前の朝のゴミ出しは憂鬱な仕事の一つだが、今日はそうでもなかった。なにしろ、連れがいる。昨日入学式を終えて、晴れて小学一年生となった娘のハナだ。

 まだ大きすぎるのではと心配になるランドセルを背負い、よろよろと歩いている。その小さな手を握りながら、そうかこの子が学校に通うのか、なんてことを、今さらのように感慨深く思っていると、いつもは嫌で仕方ない生ゴミの、鼻が歪みそうな匂いも耐えられる気がする。

 背後から、二つの足音がしたのは、そんなタイミングだった。一つはよく知っている。だが、もう一つの不規則な足音、これは何だろう? 
「イワシの腐ったごたる匂いばすんね」
 しわがれた声がそう言った。振り返って、その存在を確かめ、思わず顔が引きつった。そこにいたのは、隣家の西川さんだった。彼も出勤前にゴミ出しをする役目を任されている。いつもなら、二人でゴミ出しの朝は匂いが服につきそうで嫌ですよねなどとひとしきり話し合うのだが、彼のほうも今日は連れがいた。顔が引きつったのは、その連れの存在が原因だった。

 初めて見るモノが、そこにいた。さっきのしわがれた一言は、そいつが発したものと思われた。それは、どう見ても老婆だった。背はこれ以上はないくらい折れ曲がり、潤い、脂質のすべてを失った皮膚は、伸ばさぬまま乾いたタオルよりも皺だらけだった。その老婆が、赤いランドセルを背負って制服を着ている。自分の目がおかしくなったのかと思ったが、何度見てもその禍々しい光景は変わらなかった。
 
 西川さんの笑顔がいつも通り爽やかであればあるほど、その隣にいる物体(もはやそれは物体と呼ぶに相応しい)の異常さが際立っていた。
「ねえパパ、あのおじさんワシのことじろじろ見てくるんじゃが」
 その物体はそんなことを言う。すると、西川さんは少し困ったような顔になる。

「こらこら、ソラミ、そんなことを言うもんじゃないよ。あれは隣の家の岸田さんだ。ちゃんとご挨拶しようね。おはようございます」
「いやじゃ、ワシ、この人嫌いじゃ。ワシをヘンな目でみよる」
「こら、ソラミ! ……すみませんね、岸田さん」

 引きつった顔で、どうにか「いえいえ」と返したが、その「いえいえ」が円盤みたいに宙に浮いている気がした。それくらい、その「いえいえ」は現実味が薄かった。ハッとして隣を見ると、ハナは完全に固まっていた。小さな手がぎゅっと強くこちらの手を握ってくる。わずかに、震えてもいる。

「ほら、ソラミ、あの子は岸田さんのところの娘さんのハナちゃんだ。一緒に登校できるお友達が近所にいてよかったな」
「きったねぇ顔した子じゃなぁ。ワシ、あんまり好かんなぁ」
「そ、ソラミ!」

 だが、ソラミは西川さんの手を振り払ってこっちへ近づいてくる。拒絶したかったが、人間あまりに想定を超えた事態に遭遇すると声帯が奪われてしまったみたいに何も声が出なくなるものだ。ソラミは乱雑にしわがれた手でハナの空いているほうの手をとると、「ほれ、何をぐずぐずしとるんじゃ。行くぞのろま」と言った。

 ひぃ、と小さくハナが悲鳴を上げながらこちらを見た。ハナを守らなければ、と思ったが、次の瞬間、皺の裂け目から覗くどろりとしたソラミの目に睨まれ、思わず手を離してしまった。
「パパ、新しいお友だち、できたぞな」
「よかったな、ソラミ、学校、楽しんでおいで!」
 ハナは今にも泣き出しそうな顔で何度もこちらを見ている。だが、ここで揉めている時間はない。会社に向かわなければ。とにかく二人は学校に向かって歩き出した。というか、ハナのほうはほとんど引きずられるような感じだ。それでも、道路の真ん中を歩くわけでもない。あまりに奇妙だが、あれはきっと老婆ではなく小学生なのだ。きっと何かの病気であんな外見になったのだろう。自分にそう言い聞かせた。

 ゴミ出しを終えたところへ、バスが来た。西川さんと一緒にバスに乗りこみながら、娘さんがいるなんて知りませんでした、と素直に打ち明けた。スマホを与えたらゲーム依存でぜんぜん外に出たがらなくなりましてねぇ、へっへっへなんて西川さんは言うが、そういう問題じゃないだろう、と突っ込みかけた。しかし、何かご病気なのですかなんて聞くのはかえって失礼なようにも思えて、結局核心を突くようなことは尋ねられないまま、先に降りられてしまった。

 昼休み、気になって学校に問い合わせると、ハナは無事に学校に着いていると言われた。ただ、登校の途中で転んだらしく、足と肩と頬にすり傷ができていたので保健室で治療をしたのだ、と。

「本当に、転んだのでしょうか」
「ええ、本人はそう話しています。あと、お友達もそれを見たと」
「それは、西川ソラミ、さんですね? 彼女は、あの……子どもなんでしょうか?」
 しばらくの間、沈黙があった。保健の先生のなかでも、ソラミに対する困惑があることがわかった。だが、しばらくして彼女はこう答えた。
「もちろん、ソラミさんは小学一年生です。それが何か?」
「彼女は何か病気なのでしょうか? あの、どう考えても……」
「ほかの生徒さんのプライバシーに関することは、お答えできません、失礼します」
 不自然なほど一方的な調子で電話は切れた。

 帰宅後、妻にハナは大丈夫か、と尋ねた。時間は夜の十時で、すでにハナは寝てしまっていた。妻はハナが帰ってからほとんど何も口をきかなかった、と心配した。理由については何も話そうとせず、ただ疲れた、もう疲れたよ、と繰り返すので早めに布団に行かせたのだという。

 幸い、明日は土曜日で休みだし、二日も休めばすっかり元気になるでしょう、と妻は呑気に語った。何しろ新たな環境での暮らしが始まったばかりなのだから、多少のストレスを受けてしまうのは当然のこと、と考えているようだ。西川さんの家の〈むすめ〉の存在について、尋ねてみた。

「ソラミちゃんね、逢ったことはないけど、奥さんからよく話は聞いてるわ。入院してた時期に一度、院内の廊下で奥さんを見かけたから同時期に出産されてたのね。近所に同学年の子がいて本当に助かるわね」
 ちがうんだ、ソラミって子、何かがおかしいんだよ、と返した。だが、容姿のことに言及すると彼女の表情が厳しくなった。

 よその家の子の容姿をそんなあしざまに言うなんて、品性を疑う、といわれては、こちらも黙るしかなかった。

 翌朝、電話が鳴った。妻が出て、そうなんですか、まあ嬉しい、うちは全然大丈夫です、わかりました、すぐに行かせますね、と言って電話を切った。いやな予感がして、誰からだったのかと尋ねると、西川さんの奥さんからだという。何でも、西川夫妻が会社の催しに駆り出されて出かけるので、一人で留守番しているソラミがつまらないだろうから、ハナを遊びに来させてはくれまいか、ということらしかった。とんでもないことだ、と抗議をしようにも、妻にうまくニュアンスが伝わるはずもなかった。妻はまだパジャマ姿のハナに事情を話してすぐに着替えるようにと言った。

「ハナ、行きたくなかったら、無理しなくていいんだぞ」
「そんなことあなたが言うことじゃないわ。ハナはいつだって自分で決められる。ね、そうよね」
 妻は無自覚だ。自分の調子がいつも有無を言わさぬものであることにすら気づいていない。いつだってそうだ。ハナは妻に逆らったことがない。だから、今も不安な表情を浮かべつつも、何も言わずに着替えを始めている。その膝や肩、頬にできた傷を見ながら、このまま黙って見過ごすわけにはいかないという気持ちが強く働いた。ハナはこれから、あの家に行かなければならない。そこで待ち受けるのは、ソラミという得体の知れない生き物だ。それは、妻が事態を理解していない以上、避けられない。ならば、べつの手を考えなければ。そう考えて、うちと同様に新井病院で出産したかもしれないという妻の推測に思い至った。

 新井病院の院長は小学校時代からの友人で、ハナを取り上げたのも彼だ。すぐに電話をかけた。
 
 久々の電話だったが、雑談もそこそこに要件を切り出した。話を聞き、新井は、待ってくれよ、と言ってしばらく何か調べていた。
「西川さんご夫妻は、死産だったはずだ。相当ショックで母親は狂乱状態に陥り、旦那もそれを宥めるのにかなり大変だったんじゃないのかな。その後も何度か自殺未遂を繰り返して運ばれてきたことがある」
 
 しばらく言葉が見当たらなかった。が、思ったとおりとも言えた。あれが本当の娘のわけがない。
続けて、現状を説明した。西川夫妻が奇妙な老婆を娘だと思い込んでいることを。
 新井は「老婆……老婆か……その老婆、もしかしてへんな訛りがないか?」と言った。ある、と答えた。地域までは特定できないが、西日本のとある地域の訛り方に近い、とも。
「西川さんの奥さんが三度目に自殺未遂で運ばれてきたとき、彼女の退院とほぼ時期を同じくして、うちのロビーに毎日居座っていた不気味な老婆がいなくなったんだよ。その老婆は自分を幼女と思い込んでいて、ここでママがいなくなったから待つんだと言っていつも待合室にいた。それが、あの日を境に見なくなった。まあ病院としては厄介な存在が消えてホッとしていたんだが……」

 電話を切っても、プールに長時間浸かり続けていた後のようなおぞけが全身を包んでいる。もっと知りたいことはあった。その老婆はいつ頃から病院に現れたのか。どういう経緯でこの町に現れたのか。

 だが、あまりにもそれらを解明するには時間が足りなかった。すぐに妻にこの話を伝えよう。いや、そんな悠長なことはしていられない。真っ先にするべきはハナの安全を確保することだ。すぐに自宅を飛び出すと、西川さんの家のインターホンを鳴らした。だが、誰も出る気配はない。胸騒ぎが収まらない。すぐに門を潜り、玄関のドアを激しく叩いた。それでも誰も出てこない。ハナの名前を何度か呼んだが、そんな行為を嘲笑うかのように沈黙が呼応するだけだった。

 庭のほうから、居間の窓が開かないか試してみた。すると、手前の一つが、開いた。音を立てぬように、そっと開けたその先に、ハナが立っていた。ハナ、のはずだった。真ん中に裂け目があることを除けば。

 ハナの着ぐるみだった。
 
 ハナの皮膚を纏ったそいつが、こっちへ走ってきた。腰を抜かして、庭の芝生に倒れた。

 そいつはハナの血を滴らせながら窓から庭に降り、門を抜け、街へと飛び出して行った。
 
 ほの暗い室内で、

 赤黒い塊が、

 まだぴくぴくと動いて、

 パパ、と消え入りそうな声で呼んだ。

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