見出し画像

今年のM-1の合コンネタが私には笑えなかった いじめとジェンダー平等について

※本記事は特定人物の名誉を毀損する目的での記載は行いません。従って誹謗中傷や理不尽な批判は記載いたしませんが、意見の相違による不快感を覚える可能性がありますので、予めご了承ください。

***


風邪を引いていたので、普段は見ないM-1を途切れ途切れ観ていた。

2019年の「誰も傷付けない笑い」、2020年のマヂカルラブリーの賛否両論の漫才くらいは抑えてたけど、そのくらい。最近まで家にTVがなかったのもあるけど。

決勝の1st Roundしか見ておらず、しかも全部は見てないけど、個人的にはハライチはめちゃくちゃ笑った。
対照的に、錦鯉の合コンネタは…私の器量が狭いからとしかいえないが、いじめやジェンダー平等の観点から見て笑えなかった。
ファイナルはまだ見る勇気がないから見てないけど、たぶん面白いんだろう。
けど、『合コンのKYおじさん』はまだ、私の中で笑いにできそうになかった。


下の名前で呼ぼうとしてくるおじさん

合コンに参加する流れで最初にひっかかったのは、ボケの「まさのりさん」が合コン参加者の女性に名前を何度も聞き返すシーン。
名前を聞かれた女性は名字だけ伝えたものの、さらに名前を聞き返されるが答えようとはせず、「嫌がってるじゃねえか!」とツッコまれる。

…私は、年上の男性に下の名前で呼ばれることがそこそこの頻度である。
ボランティア関連の団体で1人だけ年齢が若いからと「〇〇ちゃん」と呼ばれたり、
既婚者でその気もないのに、もしくは未婚でその気があって「〇〇ちゃん」と、一回り以上年上の方に呼ばれることがある。
(その気があってというのは推察ではなく、後日、本人から告白された)
言っておくが美人の類では全くない。自慢ではない。


下の名前で呼ばれると、ナメられているなと感じて内心いらだたしいし、実際に「できれば名字で呼んでください」とお願いすることもある。
小学校の頃、ボーイッシュなタイプで名字で呼ばれ慣れていたため、今でもその感覚でいる。

ここで、ふかわりょうさんのブログから引用する。

略すことも、下の名前で呼ぶことも、常連にしても、共通するのは、「親しみ」「親密さ」である一方で、「自分の支配下にある」ということの誇示にもつながる印象があるので、私は、そういう呼び方には慎重な姿勢を取っています。

そう、年の違う初対面の方に対して下の名前で呼ぶことは、他人を支配下に置こうとする、見下す姿勢が垣間見える行為だ。
こちらは対等に話に加わりたいのに、どこかバカにされている、もしくは変な好意を見せられているようで嫌だ。

逆に、先輩後輩問わず誰に対しても下の名前やニックネームで呼ぶ方がいたら、ある意味対等だし不自然に感じない。
でも実際にはそんな人はいない。職場など団体活動の場ではなおさらだ。


この漫才のキモは「好かれたいおじさんの哀愁」かと思われる。
類似の現象として「おじさん構文」について解説された記事がある。

最後の方で筆者の「うんざり」という言葉が出てくるが、この手の感情表現を受け取ると大抵の女性は「うんざり」する。
相手の中で利己的なストーリーができあがつていて、それを(やんわりと)押し付けるかのような振る舞いといえる。


では、それを『漫才』として行うことの何が問題なのか?
そう思う方もいるかもしれない。

それが漫才、フィクションであったとしても、自尊心を侵害されたトラウマを再度想起させる人がいる。笑えない人がいる。
また、そのネタで傷つく人がいるという暴力性に気付かずに無自覚に称賛・共有する人が出る。

あのようなネタをやめてほしいと言える立場ではないし、そこまで言いたいわけでもないが、「初対面の年上男性が見下そうとしてくる」構図を当たり前としないでほしい。
もちろん本人がOKで「名前で呼んで〜!」というタイプであれば問題ない。


そもそもの「バカいじり」「どつき芸」

コンビ結成のきっかけとして「出会った中で一番バカだったから」とテロップが表示されていた。

バカという呼称は、蔑称の中では比較的ライトな方ではあるものの、
他人をバカ扱いして結構な勢いでどつく、あの姿で笑える観客はどうなのか。
バカなら叩いていいと子供が覚えてしまったらどうするのか。

ここで自分の苦い思い出がある。
小学校の頃、前述のように「ボーイッシュでさっぱりした性格」を目指していた中で、私は会話の流れで友達の頭を叩くことがあった。
友達は嫌がっていたし、しばらくしてそのようなことはしなくなったけど、その時のことを今でも後悔している。
当時は、それを親しみの証としていたんだと思うが、今思えば間違った愛情表現だと思う。

もう一つ。私の母親が精神病にかかっており、症状が酷いときは本当にバカになってしまっていた。
今でこそ精神病の解明が進み、うつ病は脳の神経回路の異常で、誰でも罹患する可能性があり、時間はかかるが投薬等で改善すると発表されているが、
昔、特に私の出生前は、偏見も根強く、患者を人として扱ってもらえなかったらしい。

母のような明確にわかりやすい事例でなくても、発達障害、ボーダーその他様々な理由で知能の遅れや社会性の欠如がある方がいる。彼らも一個人として平和に生きる権利があり、誰も当人の自尊心を傷付けることがあってはならないと思う。それは自分にも返ってくる。


バカをバカと罵って何が面白い?
叩いてもいいの?
それを見て皆何も思わないの?
「誰も傷付けない笑い」はどこへ行ったの?

…と、いらないことを考えてしまう。

実をいうと、似たような理由でオズワルドの決勝1st Roundのネタも苦笑いとなってしまった。
うまく友達が作れず破天荒な方向に進んでしまう姿が、母親とかぶってしまったからだ。
大なり小なり、他人との距離感がうまくいかなかったり、論理的思考力に欠ける人はいると思う。しかし、本当にいききってしまうと、あんな感じになってしまう。
母が「ママ友」を作れなかったり、ご近所の方と親しくなったと思ったら毛嫌いし始めたり、ありもしない隣人の「のぞき」を気にしたり、それに振り回された頃の記憶がうっすら思い浮かんでしまった。
私の方が、お笑いに向いてないんだろうと思う。

合コンでの失敗に対して、後輩を大声で怒鳴りつける

あのシーンは普通にパワハラだったし、大声の怒鳴り声が怖い人もいる。



では、ハライチはなぜ面白かったのか?

個人的な推論ではあるが、ハライチの岩井さんは「子供のように駄々をこねている」姿、実際にイヤイヤ期の子供がいたらあんな風に暴れ回るだろうなという微笑ましさと重なったからだと思う。
片方が片方を貶すのではなく、お互いがお互いの発言を小馬鹿にしてブチキレる。
お互い、相手に対して怒れるというのは心理的安全を感じているからできるのであり、上下関係があれば片方はすごんでしまう。その関係性も汲み取れる漫才だったと感じる。
だから安心して笑えたし、それに、心から本当に巨大ロボに乗ったり妖精の国に行きたいと思ってはいないだろうという、フィクションと現実の距離が離れていることも一因かと思う。

もちろん、例えば、身近に不条理な理由で突然キレる人がいて常々怖い思いをしている、癇癪持ちの子供に手を焼いている、などの実体験がある方には、もしかしたら素直に笑うことはできなかったかもしれない。


さいごに

私がイレギュラーであることはわかっている。
合う合わないがあるのもわかる。

が、他人をバカ扱いすることを簡単に許容してしまう間は、自殺率が下がらないのではと感じる。
私はいつでも、世界平和を目指している。

お気持ちいただけたらとっても嬉しいです!