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社会学してみる

 ここ数日、岸政彦の日記みたいな本を読んでいる。何と言うんだろう、世の中のどうでもいいようなことに如何に気づくか、社会学者の職業病なんだろうか、そういう性格故に社会学者になったのか定かではないけど、そのどうでもいいようなことを如何に文字にするかが勝負なんだと読み取ってしまう。

 例えば、読みかけの本を取り落とした時に、落としたことよりも、本に挟んでいた栞が本から抜け落ちたことにショックを受けて、一人であーっと声をあげることがある。或いはトイレットペーパーの芯に僅かに巻き残った奴を外しておいて、次に使う家族のために新しいものに取り換えてやる。その後、僅かに残ったトイレットペーパーは私がちまちまと巻解いて新し奴に追加して使ってやる。これもエシカルって言うのかな。

 どうでもいいことと、どうでもよさそうなことは違いって割と重要だ。いいことと言い切って切捨てるか、よさそうなことと言って検討のテーブルに一度載せてみるくらいの違いだろうか。社会学者のこだわりに触れてしまうと、普段は空転していた思考回路が抵抗を受けてギアがかみ合うようにゆっくりと廻り始める。

 さらに、ピックアップしてみると、リフレカップのコーヒーにストローで穴を開ける時に、一発で貫通すると気持ち良くて、身体のどこかでヨッシャとガッツポーズしている気がする。他にもボールペンの筆圧と用紙の薄さの関係だとか、消しゴムの擦る強さと用紙の摩擦係数の関係などなど。

 いかんいかん、岸さんにかぶれているわ。岸さんが事務のことをジムと読み替えて遊んでいたけど、私も事務屋の端くれなりに言わせて貰うと、トレーニングする人をトレイニーと呼ぶ体で行けば、差し詰め私は事務をする人だからジムニーと言うのか、スズキ自動車じゃないけど、薄田だから似て非なりだな。くだらねぇ。こんな調子で良ければ幾らでも書けるなぁ。

 岸さんは立命館や京都大の先端研あたりで、故立岩真也さんやらそれは凄い日本のトップレベルの人たちと日々飲み歩いて語り歩いてらっしゃるから、同じものを見てもアウトプットが全く別次元に高められてしまうんだな。凄いわ。20231218

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