見出し画像

たばこの話をしよう

 私が生まれた昭和30年代は、64年続いた元号の中でも最も象徴的な10年と言われている。もはや戦後ではないと世間は言い、別府タワーが立ち上がり続いて東京タワーが立ち上がる。東京オリンピックに向けて、親たちは競うようにして三種の神器を買い求める。そんな高度成長期がじわじわと加速して行く時代、まだまだ未舗装道路と田んぼばかりの景色の中で、除菌も滅菌もコンプライアンスなんて言葉もなかった時代が私の郷愁を育んだ時期だった。

 そうだタバコの話だった。あの頃はもしかすると大気の半分くらいは車の排気ガスと工場からのスモッグ、そしてタバコの煙だったのじゃなかろうか。物心ついた時には、丹前姿の父親の胡坐に抱かれて、口から鼻から噴き出すタバコの煙を手で掴もうとしては逃げて行く様子が楽しくてキャッキャと笑っていたのを覚えている。当時、大人の男は皆、タバコを吸っていて、時々、姉さん被りでイケてる姉さんもスパスパと格好よくタバコを吸っていた。道端も駅の構内もポイ捨てタバコで溢れていた。汽車にも飛行機にも灰皿が備わっていて、誰に遠慮することなく世の中がタバコを吸っていた。

 両親は駅裏で靴屋をやっていた。店には様々な客が用もないのに入れ替わり立ち代わりやって来ては、母親が出すお茶を飲んでタバコを吸って世間話をしては帰って行った。いつもそんな誰彼に頭の毛の中にタバコを吹きかけられては遊んで貰って、時に角のタバコ屋にお遣いに行かされお釣りを駄賃として貰えるのが嬉しかった。

 私の初喫煙は小学校4、5年の冬休みだったと思う。近所の悪がきたちと野山を駆けまわっていた時に、タクシーの運ちゃんが捨てたであろうシケモクの山を見つけてしまった。その中からまだ吸えそうなのを選んでは、火をつけて吸ってみた。誰もがゲホゲホと咳き込むのを笑い合って、一応にタバコは不味いという意見で一致した半面、珈琲と同じように飲んだり吸ったり出来ない自分らはまだ子供なんだと大人の凄さを思い知る出来事でもあったような気がする。

 中学から高校に進むと、友達の中にもタバコを吸う奴が現れ始めた。遊びに行く友達によって、隠れタバコ派、タバコ黙認派と様々あった。高校を卒業するあたりまでは、あんな不味いものを吸う気にはなれなかった。ところが卒業して大学受験に完敗したあたり、そうそう予備校に行き初めた頃から授業サボって、サボり仲間とつるむようになってからだ。18歳、ついに父親と一緒のハイライトを吸うようになってしまった。国民のタバコしんせいではなく、労働者のタバコハイライトだ。

 そして19歳、2浪目の春、父親の前で100円ライターを落として、しまったと思ったら、「何を吸いよるんか」と問われ、恐る恐るに「ハイライト」と答えて、「そうか」で容認となった。その後は受験勉強の合間に、パチンコ打ちながら、麻雀しながら、着々とヘビースモーカーへ、大人の階段を登って行く。稼ぎもないのにどうやってタバコ代を捻出していたのか、恐らく親からの小遣いで賄っていたはずだ。親不孝の始まりだったのか。

 そんな若すぎる頃のタバコの思い出は、大学受験で上京する深夜特急富士の通路に設置している灰皿で吸ったタバコ、過行く夜景を眺めて憧れの街東京に希望を抱いていたようなシーンを思い出す。そして試験当日、蒲田駅の外でダッフルコートに身を包んで吸ったハイライトの味と寒空に消える煙の行方、僅かな期待と大きな不安を吐き出していたのを、未だに映画のワンシーンのように記憶している。きっとショーン・ペンにでもなったつもりだったに違いない。

 大学に進学してもタバコは吸い続けた。この頃は授業で読書をして、マージャンで生計を立て、ビリヤードで生き抜きをするような最悪の親不孝期だった。案の定、気管支カタルになってしまった。悪友たちに相談すると、吸い方が足らんからダメなんだと言うので、苦しくても吸ってみたら、気管支喘息になってしまった。タバコの銘柄を変えた。ハイライトからマイルドセブンだっただろうか。しばらくすると治った。

 親不孝大学時代に手当たり次第にいろんな銘柄を吸い込んだ。旨かったのはショートホープにピース、特に缶ピーが最高だった。洋もくもラーク、ケントにキャメル、ラッキーストライク、ゴールデンバットにしんせい、いこいにわかばかにエコーか。タバコを買う金が無くなると、灰皿からシケモクをばらして、燃えずに残っている葉っぱをコンサイスの英和辞典を破いた紙で巻いて吸ってみた。苦学生の先輩たちの伝説を踏襲する遊びだったから、いろんな紙で試してもみた。愚かとしか言いようがないけど懐かしい。

 親不孝大学を中退して国鉄に就職をすると、配属は線路工手だから肉体労働だ。タバコなくしては仕事にならない。目覚めの一服、食後の一服、汗かいて一服、風呂行って一服、クソして一服、そいでまたベッドで一服、朝から晩までスモーキング・ブギだった。何年かして管理部門でデスクワークになった時も、机の上の灰皿には吸い殻が山のようになっていた。吸わない奴らが何とも肩身の狭い思いで仕事していたことを思い出すと申し訳ない限りだ。

 申し訳ないと言えば、社会人になって2年目の頃、おふくろが乳がんになり肺に転移して48歳の若さで旅立ってしまった。なんでおふくろがと考え、行き場のない思いが探し当てたのがヘビースモーカーの父親の副流煙だった。24歳のバカ息子の頭は混乱に任せて、暫くの間は父親が母親を殺したんだと、自分の喫煙は棚に上げながら、母親の死の責任を父親に背負わせていた時期があった。だからと言って、自分が禁煙しようとは一切思わないところもバカ息子の所以なんだな。

 そんな父親譲りのヘビースモーカーだった私にも大きな転機が訪れる。それは今のかみさんと所帯を持つと決めた時だ。付き合っていた時に、かみさんが結核で半年ばかり入院して、結核にタバコはないだろうということで、一大決心の末、タバコとギャンブルも道連れにして止めることにした。

 それから15年の禁煙のつもりが休煙を経て、何かの飲み会の席で魔が差した。再び吸い始めてしまう。45歳は仕事のストレスもあったのかも知れない。平成15年だったか、SMAPが「世界に一つだけの花」を歌って、森山直太郎が「さくら」を独唱して、中島みゆきが「地上の星」を奏でて、夏川りみが「涙そうそう」を切なく歌って、―青窃と一緒に「もらい泣き」した年だ。

 それから家族の不評と周囲の迷惑も顧みずに10年吸い続けた。ただかつてのように強いタバコは吸えない。マイルドセブンにメビウスにウインストン、結局、最後はマイルドセブンだったかな、途中、更年期障害もあって、タバコの煙に迷走する思考を預けてため息と一緒に吐き出す。随分と助けられたこともあったな。そして55歳の時だ。100キロウォーク初チャレンジを機に禁煙、今に至っている。もう吸うこともないだろうし、吸いたいとも思わない。

 ところが、家族ができて、子供なんぞが育って行くと、何かをやらかすのは自分だけではなくなってしまう。中学1年の夏休みから不登校を始めた次男、中学は保健室で卒業して、高校は通信制に席を置くも行けずに除籍、明るいニート生活を始めた次男が、タバコを吸い始めやがった。まあ父親である私も、こんなだから止めろとは言えずに容認からの、タバコが切れたら、当時はタスポカードを持たない者は買えない時代だったから、「おとう、タバコ」と言われれば、「おう」と答えて買って来てやる始末。

 そんなやり取りを見た長男が溜まりかねて激怒、そんなことしてやるから、あいつ(次男)は甘えて学校にも行かないんだ。親父が悪い。俺が学校に行かないと言ったら、ぶん殴って行かせたじゃないかと。そんなこともあったな。それでお父さんは暴力はいけないことを学んだんだ。だから次男には手をあげず、時間に解決を任せるのだ。こんなやり取りを長男と繰り返す間も、次男はタバコを吸いながら静観している。そういう時期もあったという話だ。

 さて、余談ながら、最後の禁煙から暫く、身体からニコチンが抜けるまで、恐らく5年間くらいだったか、汗が臭くて周囲にかなりな迷惑をかけたことがある。加齢臭と混じって、高校の部活の時の床を拭いた後の雑巾のような匂いとでも言うのだろうか。とにかく自分で嗅いで臭かったから、まわりは辟易していたに違いない。ところが、ここ数年は汗の匂いが日向の干し草の匂いに近くなったような気がするけど、それもどうなのって言われるかな。

 専売公社から日本たばこ産業となってテレビCMの質は上がったけれど、タバコの煙はどんどん世間の端っこに不可逆的に追いやられてしまった。今となっては、そんなタバコとの思い出を書き残すことでいつかタバコの煙のように消えて行く記憶を止めたいと思ったのと、やっぱり随分と長きに渡って世話になったこともあって、せめて記録として留めておいてもいいかと思って書き始めたら長くなってしまった。まだ他にもタバコにまつわるエピソードは沢山あったような気がするが、また別の機会に譲ることにしよう。最後まで読んで頂いてありがとうございました。20230715

ここで頂く幾ばくかの支援が、アマチュア雑文家になる為のモチベーションになります。