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私が自己探求を続ける理由② ─独自の精神パワー

人生の折り返し地点はとっくに過ぎている。それでも私は自分が何者なのか探りたい。笑われてもいい。笑われるだろう。でも探りたい。
なぜなら子供の頃からずっと感じている「周りと何かがすごく違っている」という違和感が、人生の成熟期を迎えた自覚がある今もなお色濃く残っているからだ。若い世代が探している自分に貼りたい特別な人というラベルとは違うのだが、側から見ると同じに見えるだろう。それでもいい。長年かけて生きづらさは乗り越えてきたのに、それでも残る、いや益々色濃くなってくるこの違和感の正体を探るために、書く。

先回は、人との違いを感じる理由として、子供時代における外的な要因を二つ書いた。

1・機能不全家族(家庭内暴力、精神的ネグレスト)
2・敏感気質(HSC)、社会不安障害(社交不安、対人恐怖症)

先回書いた記事↓
読んで♡までくれた方ありがとう。

泥くさ集団に紛れ、知の奴隷たちに紛れ、金魚のフンと化して生きた二十代

◆アダルトチルドレン(AC)

繊細気質に生まれたのに毎日暴力問題と向きあい、過度のストレスに心身がやられて苦しかった子供時代。でも何よりも残念だったのは、親を始め周囲の大人からケアされなかったこと。大人たちから精神的に放置されたことは本当に残念だ。でもこれは仕方ないことでもある。
なぜなら、私は助けられるべき存在ではあったが、助けられなくてもギリギリ生きていける能力を持っており自らの困窮を大人たちに訴えることをしなかった。また、周りの大人もそんな私の独特な性質を理解し得なかったと思う。ましてや意思薄弱な母親は尚更だ。

精神的に母親の代わりを務めるにあたり何よりまず家計を助ける必要があった。高校入学はしたけど学校生活を悠々と送る経済的精神的余裕がなく、数ヶ月で中退して働き始めた。……この時点で、世間の人並みに学歴を持って就職する道は閉ざされたわけだ。ただ家のために仕事は始めたけれど、暴力に向き合う環境にはもう限界がきていた。母を助けながらも一人暮らしをすべく家を飛び出したのは16歳、次いで田舎を飛び出したのは20歳の誕生日。四国から近畿へ。結局家も故郷も後にした。社会恐怖症だったせいで普通の仕事に耐えられず、住み込みで新聞屋の専業員になった。真っ当な道をゆく人たちに見つかることのない薄汚れた環境に身を置いた。自尊心の欠片もない私にはその方がずっと安心できた。

子供時代の体験から自然の成り行きとして、二十代はアダルトチルドレンとして苦しみ抜いた。結婚を早くにしたのは『支えとなる存在が家族にいる状態というものが一体どんな感触なのか』とても知りたかったから。本来ならアイデンティティーが確立せぬまま新たな生活へ踏み出すのはよくない。だけどそんな動機で決行してしまうほどに切実だった。だから結婚生活というものは、表面的には楽しくまわっていても、内面ではもがき苦しみ、悲鳴をあげる日々だった。

小学生の頃からいつも生きる意味や神の存在や善と悪などについて考えていたせいで、一人暮らしを始めた16歳の頃、ある人と話を始め(その人が私の人生で初めて、私の境遇に涙を流してくれた大人だった)それがきっかけでとある宗教コミュニティーに関わることになった。田舎を出て数年経ったある日、そこで私と同じくアダルトチルドレンに苦しむ繊細な女性を知った。彼女は母親との関係ですでにメンタルがボロボロになっており、定期的にカウンセラーからの援助を受け病院にも通っていた。家に引きこもり他人との交流を避け、笑顔を見せる余裕もないほどだった。彼女の夫も、もう何をどうしたらよいかわからない……と途方に暮れていた。
私はその人の境遇を知って複雑な気持ちになった。彼女とはACの種類は違えど、子供時代からの問題を抱えているという境遇はまったく同じ(※)。
……なのに、彼女との大きな違いを感じてしまった。それは、問題との向き合い方が私とまるきり違っていたこと。


アダルトチルドレン(AC)とは……
心的外傷をもたらす機能不全家族や家庭環境が原因で、子供時代を子供らしく過ごせず、精神的に傷を負ったまま大人になった人。根源にあるのは愛情不足。家庭の中で立ち回ってきた役割タイプが六つある。

1・ヒーロー(英雄)
2・スケープゴート(生贄)
3・ロストワン(いない子)
4・ケアテイカー(世話役)
5・ピエロ(道化師)
6・イネイブラー(慰め役)

(※)彼女はいわゆる毒親からの過干渉が原因で、役割はタイプ1。私は親からの精神的ネグレストが原因で、役割はタイプ4+5。どちらも自尊心の低さとアイデンティティーの不安定さにより人生が困難になる。克服するのは容易ではない。問題に気づき、自己を癒し成長へ導くというステップが必要。


問題との向き合い方が違う──これはどういうことかというと。……私は『自分が自分の親になる』ことで苦境を乗り越えてきた。過敏な神経を持つ子供だったのに、過酷な環境を自分自身の知力と精神力と想像力で乗り越えてきた。誰の力も借りず、たった一人で。それは私の中から湧き上がってくる独特の精神パワーであり、心の奥でたゆまず燃える希望の焔が成し遂げてくれるものだった。他の人より賢い道を行きたい、一段上の道を行く人間になりたい──こうした強い『欲求』が問題解決の突破口を開いてくれると一ミリも疑わなかった。そして苦難を乗り越えた私は、いつか何もなかった人と同じように笑ったり喋ったりする。もちろん誰一人私の過去には気づいてくれないけどそれは当然だろう。……彼女はこんなふうに対処してこなかったのだろうか。

私が選んだ道

私がしてきたこと(苦難を乗り越えた方法)

乗り越えた方法のことは、これまで何十年も言葉にできなかった。ある意味当たり前だったから。誰もがしていることでもあると思ってたから。一方で、誰もしていないことも知っていた。歳を重ねるごとにしていない人の多さに気づいた。子供なら尚更するのが難しいこともわかるようになった。今人生の成熟期というフェーズに来て語彙力も身につけて、ようやく私はこれを言語化できる。だからここに記しておきたい。

問題1・母親は主体性のない脆弱な人間で、私のメンタルのケアを微塵もできない

事実を受け止める:
私には精神的な意味での親がいないのだ、とある日悟った。▶︎▶︎まだ子供だから支えたり誘導してくれる存在が私には必ず要ることを感じる。▶︎▶︎自分の状況を『俯瞰』で見てみる。意識の幽体離脱。▶︎▶︎誰が親として最適かを探す。▶︎▶︎この問題を速やかかつ的確に取り扱ってくれる人間は『自分以外どこにもいない』ことに気づく。▶︎▶︎そうか、私が私の親になればいいのだ。と結論を出す。

具体的な方法:
大人としての目線をもって、助けが必要な子供の自分を『支える』ように扱っていく。▶︎▶︎気持ちをよく聞いて、つらい時は涙を流させてあげる。明るい未来を想像するように度々励ましてあげる。加えて母親と妹のことも支え助けてあげなきゃいけないよ、と使命をも教えてあげる。問題の根源である弟のことも相手の立場になって考えるように促す。『いつでもどこでも誰に対しても深い思いやりを持ち決して希望を失わないこと』これが生きる上で何より大事なことだよ、あなたはそれを目指すべき、と教えてあげる。

結果:
俯瞰力というパワフルな技を身につけた私は、苦しくても、誰にも助けられなくても、前を向いて生きる人間になった。これが心で目指していた『人より一段上の賢い道』だとわかったので、あらゆる問題に『これ』で立ち向かっていく決意ができた。

応用:
例えば、抱えていた別の恐ろしい問題、対人恐怖症。これに向き合うのは、荒れ狂う嵐の海へ小さな船で漕ぎ出すようなものだった。勇気の必要量が半端じゃなかった。そこで、同じように俯瞰側の私が弱い私のメンターとなり背中を押してあげた。
具体的には、もっと怖い問題(誰かに殺されそうになる)などと比較してみたり、長い目でものを見るように促した。年老いて死ぬ頃には笑い話にできるよ、とか。一つ乗り越えたら、褒めて、労って、また次の局面でも成し遂げたら、また勇気を称えて励ましてあげて、また一つまた一つと、手を取り肩を抱えて、乗り越えるという経験を共に地道に積み重ねていった。外側から見れば、私が内面でこんなことをしているなんて誰も気づかないと思う。私の中に渦巻く嵐の海、そこに独り乗り出していく人間の多大な不安と勇気など、誰にも見抜けない。

問題2・直接の暴力─殴られる痛み、蹴られる痛み、髪を引っ張られ引き回される屈辱

事実を受け止める:
敏感気質の私にとってこれは気が狂うほどに耐え難い。大人は助けてくれない。自分でなんとかしなければ。さて、どうやって耐えてゆくか? 

具体的な方法:
私の切り札「想像力」を使うことにした。殴られた時は今ここではないどこかへ意識を飛ばす。日頃空想で創り上げておいた別の世界へと自分を連れて行き、『痛み』ではない『楽しみ』で想いのすべてを満たす。いわゆる現実逃避だ。……現実逃避なんて言葉はよく馬鹿にして使われることが多い。笑いたければ笑ってくれたらいい。でもこれはかなり有効な方法だった。 

結果:
苦しい時は何度も使う。痛い、とにかく痛い。苦しい。悲しい。平和に暮らしたい。安らぎがほしい。……耐えられないはずの場面や時間もこれで無理矢理『やり過ごし』た。いつも現実ではない別の世界を心に抱えて過ごすことで、現実の苦しみというリアルを遠のかせた。これができなかったら紛れもなく精神が壊れていたと思う。(……大人になって映画『パンズ・ラビリンス』を見たときあの少女を他人とは思えなかった。)

問題3・暴力を振るう人間との関係について

事実を受け止める:
弟(+私を罵った父親)を恨みそうになる気持ちをどうするか? おそらく普通人間が向き合うことになる問題であるこれも考えた。

具体的な方法:
これは難しくもあったが比較的簡単な問題でもあった。心の底に脈々と流れている素直な強い願いに従えばよかったからだ。私は誰よりも賢い人間になりたい。だから▶︎▶︎相手の立場になって相手の苦しみや悲しみを想像してみる。そうしていると暴力行為を『許す』のが正解だとわかる。なぜなら相手も小さく哀れな生き物なのだ。むしろ愛されるべき一人の人間なのだ。暴力しか表現方法がない可哀そうな子供に過ぎない。愛に飢えているからそうなっているのだ。だから私が誰よりも弟を理解し愛してあげなきゃいけない。

結果:
もし私が命を投げ打つことで弟がまともな人間になれるのなら喜んで命を捨てる、とまで思う瞬間があった。殴られ蹴られする度に、憎むのではなく相手を赦そう愛そうと努める。悪を憎んで人を憎まず的な思考だ。これが私の子供時代のベーシックな価値観だった。

本来なら弟をちゃんと叱ってくれる大人がいることが望ましい。だけど、同じ子供である私には暴力そのものを封じ込めるほどの体力と精神力はなかった。……大人になった今の私なら訳なくできるのにね。だって結局弟も家庭の中で2・スケープゴート(生贄)の役割を担った子供なのだから。弟には百回尻を激しく叩いてやるくらいの、大人からの熱心な叱咤と愛ある関心が必要だったのだ。逃げたり怯えたりするのではなく、向き合ってくれる大人が必要だった。ただ、子供の私にはそれができなかった。自分と母と妹を支えるので精一杯だった。そこまでの責任を背負えない自分の非力さを感じた。

応用:
これは、取得したというより元々持っていた願いだったので、すでに他の小さな場面で他の人に対して使っていた。だからより磨きがかかった感じになったと思う。ただ、行き過ぎてお人好しすぎる行為で自分が大損することも多い。いずれにしても直接的な暴力を振るう相手に対するほどに強く使う場面はあまりない。ずっと大人になってから、親しい人からの裏切りという精神的な問題でもこれは助けになった。

……こんなやり方だ。こうした仕方で色々な問題を自分一人で乗り越えてこなかったのだろうか、と他の人たちを見て思う。一瞬やってみるんじゃない。いつも、いつも、するのだ。どんなに苦しくてもどんなに気が狂いそうになるときでも、この俯瞰力と想像力と善を想う心のエネルギーを借りて自らの力でそれをするのだ。(……って、読む人から見るとなんだか気ちがいじみたドM思考に思えるかもしれない。だけど、素直にそのままを書いたらこうなる。)

話は元に戻る。
この他人に感じる違和感は、その後どこに行っても誰と関わっても付き纏うことになった。私よりかなりマシな状況に思える問題でも、答えを探している人が多いように思う。すぐに他人の意見を求めたり、誰かからの共感を得ようとしたりする人もいる。怒りや悲しみや不安や疑問を言葉と態度で表現して、自分以外の誰かに訴えようとしている。やがて情報化社会になりネット上でACを始めたくさんの生きづらい人たちの声を耳にするようになった。同じ子供時代から似たような環境で苦しんでいる人たちにも、やはり妙な違和感を感じる。みな答えを探してもがいている。自分の内側から答えを創り出して向き合ってきた人の経験談をなかなか聞けない。似たような経験を見つけても結局それは誰か別の人に相談したり訴えたりする場面だっりする。だからモヤモヤしたままそういう人たちの輪に入ることは一切せず、ただ傍観して生きてきた。

◆知の奴隷組織からの離脱

もう一度コミュニティーの話に戻る。私はアイデンティティーの不安定さと繊細気質のため、また家庭環境の違いから感じるこのやりきれない違和感のために、真の友達は作らなかった。作れなかった。はたから見れば私は、人気者の夫にくっついているだけの金魚のフンみたいな存在だった(笑)実際ほとんどの大人は私のことを「大人しくて静かでどこかのお嬢さまみたいな繊細な人」と、何も考えていない空気のような人間のように評価した。……一人だけ、変わった見方を持つ年上の女性がいた。その人は頭脳明晰ですぐに誰かと馴れ合ったりしない何となく孤高の人だった。その人にやたら好かれたので理由を尋ねたら、「周りの人は何も分かっていない。あなたは他の人とは全然違う。私だけがそれをわかる」的なことを言った。彼女も子供時代からの苦悩を抱えて苦しんでいたがいつも気難しい顔をしていた。頭の良さを尊敬してはいたが『苦しくても笑って生きる』ことを目指している私には、その姿勢や生き方にあまり好感が持てなかった。だからその人に何を言われようと、私の自分への評価はいつも『金魚のフン』だった。

最初は賢くなれる場所だと思って関わり始めたが、常に自分の頭で何かを考えたい私は、やがて周りの人間が思考停止していることに気がつくようになった。組織における従順な態度や協調性というものは、つまるところ思考の放棄であり、奴隷と何も違わない。与えられる知識を咀嚼することにのみに力を使い、学びそのものの意義について考えることをしない。俯瞰で見たときに見える、与えられたものを消化するだけの態度の異様さに疑問すら抱いていない。私と同じ若い世代は特に、自分に付けてもらえるラベルにばかり関心があるようだった。ついに私は根底から価値観を覆し、その組織も飛び出した。
飛び出す寸前に、ある人と人間より高次な存在の有無や形而上の事柄について、長い手紙を交わし合ってしばらく議論した。これは生まれて初めて、自己を全開にしてできたコミュニケーション経験だった。その人は私の過去を知って私のことを「稀有な人だ」と言った。子供なのに自分で自分を導いてこられる人間は世間にあまりいない、と。その言葉が今でも心に残っている。

内面的なパワー(エネルギーの源)

自分の波乱な半生をこんな数千文字で収めることなんてとてもできない……と、ここまで書いてみて実感する。私と同じ女性なら、学生時代は学校で友達と笑い合ったり勉強に打ち込んだり、大人になれば就職して社会人らしい悩みを抱えたり、そんな時間を過ごしてきたことだろう。
本来なら高校生だったはずの月日、まだ皆が眠っている時間に起きて雨の日も嵐の日も体力仕事をした(小学生の頃も夏休みに家族のために働いたことがある)。二十歳以降は、守るべき母妹と離れたことで身を切るような寂しさと苦しさに耐えた。社会のはみ出し者が集う職場でむっさいおっさん達に囲まれて体力勝負の生活を送った。私の外側しか知らない昔のクラスメイトが知ったら驚くことだろう。あんなに大人しくて穏やかな性格の少女が根性の世界でたくましく生きてきたことに(笑)絵ばかり描いていたのにバイクを乗り回し男たちと肩を並べて働いてきたことに(笑)実際私の印象と行動のギャップに驚かれたことが何度かあった。
……はっきりいって、身体を動かすのは全然好きじゃない。本来は机に向かって書き物や調べごとをしたり創作をしたりしたいタイプ。性格でいえばまるで正反対の仕事だ。体力を使うのみならず、ガサツで荒々しい人たちと共に過ごすことも敏感気質の私にはひどく苦しい。だけどこれが私の生きる術だったし、子供時代の困難さに比べればわけもないとも思っていた。

私には乗り越えていくオリジナルのパワーがあった。もしこれがなかったなら、引きこもりやうつ病や反社会的な大人に確実になっていたと思う。文字どおり自死の選択もあった。まして厭世的で皮肉屋で斜に構えた人間になることなら至極容易だったろう。愚痴や文句ばかり吐くような、周りを困らせる人間になっていたかもしれない。内面から湧き上がるこのパワーがなかったなら……。

まだまだ続くけれど長くなるので続きは③で書く。
次回はこのパワーが何なのか、つまり違和感の元となっているものの正体についてまとめてみる。
先回書いたとおり、最終的にこのシリーズはHSS型HSPにギフテッドと似た特質があることの不思議『?』へまで進んでいく。そして最後にギフテッドについて私が思うことを記して終えるつもり。興味ある方はまた読んでくれると嬉しい‪。

↓続き


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