見出し画像

ほんとのこと。~個人的な本の話~第一回

 普段、文学話やレポに使っているnoteですが、個人的な読書体験を話すのにも使いたいなと筆を執りました。
 人と本の話をするのは楽しいですが、全然時間が足りないんですよ。
 あと、こそっと自分の話を吐き出す場所も欲しかったので。

 キャッチボールや野球が楽しいのは承知の上で、バッティングセンターに行きたい日もある。
 これは、そんな日に何か書く場所です。

終わらせられない本の話。

 さて、第一回。
 筆を執り始めた現在は、2024年02月11日。
 ミステリ作家・殊能将之先生のご命日です。(以下・敬称略)
 昨年2023年が没後10年ということで、12月末から既読も含め、少しづつ読み返しをしていました。
 もう未読なのは「キマイラの新しい城」だけです。
 ご命日なんですが、未だに読む覚悟ができないんですよね。

 私は子どもの頃からミステリが好きで、それは今も変わりません。生活面の事情などで小説を読めてなかった時期もあるし、今は自創作の兼ね合いでミステリじゃない本を読むことの方が多くなっていますが、主な栄養素としてミステリを摂取して育ち、私の血肉はミステリで出来ているのは間違いなくて、私をここまで生かしてくれたのもミステリです。

 もう「ハサミ男」を読んだ時の頭を殴られるような快感は二度と得られないんだろうなと思っている、私にとって殊能将之はそういう作家です。
 もちろん、私の知らないミステリもあるし、読んだことあるものでも面白いミステリは他にも沢山あるし、今も生まれ続けているんでしょうけど、ミステリは薬物のように耐性がつく読み物なので、私の体が(脳が?)あの時のような新鮮な反応をしてくれることは二度となさそうだという意味で。

 ただ、一作目の「ハサミ男」の衝撃を超えてくれると期待してこの作家を追い続けていたのかというとそうでもなくて。
 そもそも、殊能将之は同じ快感を期待できる作家ではないんですよね。あくまで私にとってなので同意は求めませんが、いつも期待を裏切ってくれる作家でした。
 「ハサミ男」でこの作家を好きになって、「美濃牛」読んだ時は「ちくしょう、やってくれたな!」って思ったし、続く「黒い仏」「樒/榁」まで追い続けていると、もはや「次は何をしてくるんだろう!」ってなる。そして「鏡の中は日曜日」で、この作家への信頼が確固たるものになった。

 新書版『キマイラの新しい城』が出たとき、私は私生活が忙しかったので、大切だからこそゆっくり時間を割いて落ち着いて読みたい、と思ってスグには読まなかった。書店勤務で積ん読が大量に増えたのもこの頃だったし、文庫で揃えていたこともあって、自分の意志で敢えて文庫待ちをした。
 だから、リアタイで読んだ殊能作品は、2003年刊行の講談社ミステリ―ランドレーベル『子どもの王様』が最後になってしまった。

 それからも忙しい日々は続いて、(漫画の)創作活動をしたり、入院したり、色々あって、生活が安定し再び小説が読める環境になった頃には、殊能将之は既に亡くなっていた。2013年の02月11日だったそうだ。
 それもリアタイで知ることが無いほど、当時の私はミステリから離れていたし、それどころではない状態だった。
 むしろ、自分が「キマイラ」を未所持のままだということも、亡くなってから気が付いた。
 訃報を後から知ったのは、2015年の春頃だと思う。創作文芸イベントの打ち上げか何かの時に好きなミステリの話をしていて知った。
 頭が一瞬真っ白になりはしたけど、しばらく殊能作品から離れていたせいもあってか、泣くとか身体や生活に支障の出るような衝撃はなく、その少しあとに刊行された『殊能将之 読書日記 2000-2009』によって、じわじわ広がる染みのようにゆっくりと、殊能将之がこの世からいなくなっていたという事実が自分の中に広がっていった。

 死を知ってから、追えずに持っていなかった本を買いそろえた。
 もうこれ以上、作品が増えることがない。
 その事実を認識するのには時間がかかるんだなってことを知りました。
 作家が亡くなったことは当然残念に思うんですけど、新作が出ないことをちゃんと理解するのにはタイムラグがあるんだなって。 

 昨年、限界研さんの主宰する「法月綸太郎×限界研ミステリ―塾 京都編 テン年代の向こう側」を拝聴した時、登壇者のお一人が「僕にとってこの10年は殊能将之のいない10年だったんだなって……」と言っていらしたんですよ。 
 2023年が没後10年だからなんですが、それはこの先、20年、30年になるんだなって、この言葉を聞いた時に気づかされました。

 私は離れていたおかげで、ゆっくり受容することができたんですよね。リアタイだったら致命傷になっていたかもしれない。
 そして、離れていたからこそ、まだ未読の作品が私にはある。
 でも、没後10年だ。
 私の中の殊能将之を終わらせる時が来たんだ、と思って、作年末から少しづつ読み返しつつ未読の作品にも手をつけ始めました。
 未読だった『9の扉』収録の「キラキラコウモリ」、『殊能将之 未発表短編集』を読み終えて、最後に「キマイラ」を読むなら石動シリーズ「美濃牛」から順に読んでから……と、準備を整えてきました。

 でも、やっぱり覚悟ができない。

 好きなミステリ作家は殊能将之だけではないですし、もう新作が出ないことが確定している好きな作家は他にもいます。
 ただ、乱歩もドイルも漱石も、私が生まれる前に既に亡くなっていた作家なので。
 先述してきたように、殊能将之は好きなだけではない作家でした。
 もうたぶん超えることはない体験を与えてくれた作家。
 新作を追いかけるという体験をさせてくれた作家。
 常に新鮮な体験を与えてくれた作家。
 その殊能将之によって、私は<作家の死>を初めて体験し、「キマイラ」を読み終える時までそれは続くんでしょうね。
 まさか、こんな体験までさせてもらえるとは。
 最期まで「ちくしょう、やってくれたな!」って。

 たぶん、これから、私は自分が無事に生きている限り、好きな作家の死をリアタイしていくことになるんでしょう。
 その時の自分がちょっと想像できませんが、きっとしばらくのうちは心身も生活もクソボロになるんだろうなって思います。
 だから、自分にとって初めての作家の死の衝撃がこういった形でよかった。
 そして、それが殊能将之でよかった。

 さあ「キマイラ」いつ読もうか。これがほんとうにファイナル。
 いつ終わらせられるかは未定ですが、期待を良い意味で裏切って、どんな爪痕残してくれるのか楽しみです。
 その時、クソボロになるか、泣くか、スッキリするか、ぜんぜん想像できませんが、読んだらココに記しにきますね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?