見出し画像

料理

 の・ようなもの、を作る常習犯であるので、ことあるごとに、の・ようなものを作っている。まず初めにこれは、の・ようなものであると自覚したのは、カルボナーラであって、人様に作れと言われただかなんだか、忘れたがそもそも作らないものを適当に作ったところが始まりであった。

 カルボナーラ。きっと食事をしたことがある、現代日本に住んでいる人間であればどこかで出会ったことがあるだろう。白いパスタだ(そもこの時点で認識がこの程度である)。それまでそれが私に馴染みがなかったのは、外食をする時、カルボナーラを好んで選んでこなかったためにすぎない。好き嫌いが多かったので、牛乳が暖かく食べものと同居しているのが嫌いであると思っていた。たぶんそれを初めて作った件の際には一度くらいは食べてみた頃であったろう。食べられるものだなとだけ思ったそれを、レシピを探したとはいえ作るのは至難の業だ。

 の・ようなものは言い換えれば「正解のわからない料理」である。カルボナーラを皆様はお作りになったことがあるでしょうが、あのソースを作る時の最たる問題点は何か。それは温める程度だ。私はいつ作ってもカルボナーラを炒り卵パスタにする才能があり、未だにそれをなめらかなソースにできない。牛乳と生卵が入っているものにどうしても完全に火を通さなければ気が済まないのだ(そういうものではないということを理解はしています)。結局それを作って出した人間には「これはもはや炒り卵のパスタだけど美味しい」という評価をいただいた。ちなみに生クリームを使うレシピ等々あるがそのようなものを常備していることなどあるはずがないので、我が家のカルボナーラはいつでも牛乳と卵である。そのふたつが冷蔵庫に揃っていることもそもそも稀だ。

 の・ようなもの、そのほかにはたとえばお粥。季節の慣習に乗るのが好きであるので、毎年七草粥を作るのであるけれど、粥、皆さま馴染みのある食べ物ですか? 私は、親が数回七草粥(の・ようなもの、なぜなら母はとりあえず葉物であれ根菜であれ野菜(草という認識)が七種入っていればそれで正解だとしたからである)を作ったことしか記憶にないので、粥もまた正解がわからない。しかし最近は便利なもので、その時期になると七草の入った野菜のパックが売られていて、それのパッケージには丁寧に粥の作り方が載っているので、それに則って作ればきっとそれは正解の粥だ。そして食べれば美味しい粥を私は作ることができるが、果たしてあの粥が正解か、そこはやはり私にはわからない。粥・の・ようなものを私は毎年懲りずに作っている。

 「家で料理をしますか?」と稀に聞かれて、「自分で食べるものくらいは、まあ」と答えると、「えらい」とよくわからない返答が返ってくる会話を幾度か取り交わしたことがあるけれど、日々、何かしらを食わなければ面倒なことに生きていけないのだから、自分の食うものについては大抵作っている。外食も買い食いもするにはするが、飽きるし、金はないし。仕様がないのでひとつつくってはひとつ胃に入れる生活をしているからそのままを会話するのだけれど、その相手にはその意図は伝わっていないらしい。実際、私の作るものはほとんど料理名を持たない。冷蔵庫に入っているもので作った丼のような何か、何か炒めたやつ、何か煮たやつ、何かしらの和えたパスタ、米……全てが、とりあえず食えるだろう形態に調理されただけの「何か」だ。これらは、の・ようなもの、とすら呼べない。この有様で私を家庭的な人間のように考えるのは甚だ無謀である。

 私の作って食べるものが、の・ようなもの、ですらないと考えると、の・ようなもの、はつまり私が大半作っている食べ物よりもまだ、輪郭がしっかりしいているものだということだ。料理名があるもの、つまりどこかに正解がある料理が、の・ようなものを名乗っている。カルボナーラ・の・ようなもの、お粥・の・ようなもの……。しかしそもそも料理の正解とは何か? と考えて、私には結局どれの正解もわからないのではないかという疑惑が上がった。母の作る料理と同じ味のものを私は作れないし、よく外食で食べるもの、たとえばオムライスも自分で作れば、オムライス・の・ようなものにしかならない。むしろ正解がわかる料理を考えれば、ようやっと二種思いつくという有様だ。その二種は、卵焼きと、冷や汁。実家で父のいない日の、私と母の昼食の常連。卵と同数の杯数の砂糖と塩をとりあえずつっこんんで、適当に焼く卵焼きと、胡麻と鰹節を摺鉢で摺って、豆腐と胡瓜を入れて湯と味噌を溶かした冷や汁。これだけは母と似たような味を作れるので、私が作ったそれらも正解(だと思われるもの)に近しい。これらは、の・ようなもの、ではない貴重な料理だ。

 の・ようなもの、を作る常連ではあるが、その量産は、思ったより簡単ではなかったのかもしれない。カルボナーラとお粥の他にも、クッキーだとか鯵の南蛮漬けだとか、私の作ったの・ようなもの、は数知れずあるが、それらの共通項はレシピであった。同じ人間の書いた、「の・ようなものレシピ」がある、という話ではない。ただこの無精者の私がレシピを探して、自分としてはその通りに作ったものばかりであった、ということだ。卵焼きと冷や汁については最早レシピなど探すまでもないし、「何か」は料理と含めるのに疑問が残る程度のものであるのでそもそもレシピなど存在しない。の・ようなもの、にはレシピを、正解を求めているのだ。だからこその、の・ようなもの。それを食べた時に美味しいと思った正解を思い出すこともできず、構成する味の何が違うのかもわからず、つまり再現もしえない。それが、の・ようなもの、の正体だ。

 これで私の作るものは二品目の「料理名」と、多数の「料理名・の・ようなもの」、それから無数の「何か」に分類された。とはいえ、の・ようなもの、を「料理名」にアップデートする必要性も感じず、また技量もやる気もなく、日々「料理名」を作る気にもなれないのが性分であるので、私はこれからも懲りずに、の・ようなものと無数の「何か」を作り続けて、それらに身体を構成させ続けるのだろう。

 の・ようなもの、は案外奥深い。……作っている本人は気楽に、興味が散逸して、何も考えていないから生み出されるものなのだけれど。


盛岡デミタスさんのアドベントカレンダー(2019)寄稿です

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?