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厄介な人っているんだろうか? 〜オルタナティブ福祉に参加して〜

2023.10.8

大阪市東成区で行われたオルタナティブ福祉vol.4に参加した。

少し前に読書レビューを書いた「母がゼロになるまで」の著書リー・アンダーツさん主催の会「オルタナティブ福祉」。

ゲストの田渕さんは、リーさんともともと音楽仲間で、田渕さんはリーさんがnoteに執筆していた時からの熱心な読者でもある。

「オルタナティブ福祉」について私が説明するよりも、リーさんと会に深く関わる田渕さんの言葉で説明するのが適切な気がする。

自分の体験を何かに還元したい。

母亡きあと、そんな想いで居ても立っても居られなくなったリーは、手探りで自分のできることを探していたようです。
NPOの設立や相談窓口の設置、福祉関連の資格取得など、具体的なことも色々と検討した結果、リーは”困っている人の支えになること”が軸にあるのなら、その活動形態に拘らないというスタンスを選びました。
形容し難いリーのスタンスは、ボーダレスで間口は広いようですが、実際に問題を抱える方たちの相談内容は深刻であるがゆえに、慎重な取り扱いと機密性の高い窓口を望むことも事実です。また、悩みの渦中にいる人は、誰かに助けを求めることさえ視野に入っていないことが予測されます。
そこでリーは、まず自分の記事に興味を持ってくれた方と一歩踏み込んだ話ができる場を持ち、自分の想いを発信したかったようです。企画の旗揚げは、そんなリーの熱意の存在を知ってもらう意味も含まれています。

では、オルタナティブ福祉とはどのような座談会で何を目的とするのか?

オルタナティブとは「主流な方法に変わる新しい方法/代案」という意味があります。つまりこれまでにあった福祉サービスの網の目から抜け落ちた人々の声もすくいあげたい。そのために何をすべきか意見交換をする。言わばまだ宙ぶらりんのオルタナティブ福祉は、変幻自在進化型座談会と言い換えれるかもしれません。

「オルタナティブ福祉は他人事ではない」 田渕徹note

リーさんは著書で「介護ではなく手助けをした2年間のはなし」と書いているけど、内容的には壮絶で手助けの範疇をだいぶ超えている気がする。様々な事情で助けてもらいたい希望の福祉のサービスが受けられないこともあった。その分、家族の自分にのしかかる。そんな状況で私がリーさんの立場だったら逃げずに関われただろうか?

現実的にも世の中には様々な悩みを誰にも言えずに苦しんでる人、公的な福祉では対応できずに途方に暮れている人もいる。そういう人の支えになるのが本来は福祉なはず。取りこぼされた人を見殺しにしないということが。だけど現状としては公的な福祉では手が回らないことも多い。それは制度が悪いという訳ではなく、それほど困っている人が居るということなのだ。

「オルタナティブ福祉」は、リーさんの著書を読んで興味を持ったり心に響いた人たちが自分の抱える問題を話せたら…という切実で慎ましい会。本を売る為に華やかに行う出版記念パーティーの真逆をいっている。それはリーさん自身が本を売りたいということよりも、自分の経験を活かして誰かの救いになれたら…という気持ちの大きさの証なんだろう。

会場は二階建ての小さな一軒家のスペースだった。一階の奥にリーさんのお母様のゴミ屋敷を再現したインスタレーションがあった。


外から覗けるようになっている
実際の部屋はもっとひどく匂いがきつかったという

他にはお母様が人からお金を借りる為に考えた文章の下書きが掲示されていた。「外反母趾なのでブーツとパンプスとスニーカーを買うお金を…」というようなことが書かれていた。ツッコミどころ満載だが本人は真剣なのも伝わる。

二階が座談会会場になっており、お酒やアテをいただきながらフランクな感じで参加できるようになっていた。こじんまりとした場所に20〜30人ほど集まって、会はスタートした。

左から田渕徹さん、リー・アンダーツさん、豊田朝日登さん

始まりの歌を田渕さんが歌う「平凡人don't cry」。

リーさんが会の趣旨と田渕さん豊田さんの紹介をして、何でこのような会をしようと思ったのかを話す。豊田朝日登さんはNPO法人ツナガラートの代表の方で障害者福祉に精通している。

豊田さんが、田渕さんとリーさんとは少し違った視点で話したり、すぐに理解できないことを話すのがむしろよかった。この会は明確さやスムーズさはいらないはずだから。

休憩中にもいろんな話が続く

座談会では事前アンケートを元に、参加者が悩んでること、話したいこと、聞きたいことを取り上げてゆく。いろんな話が出たが、その内容は書かない。その場だからこそ出せた話だったりするから。

だけどひとつだけ。その中で出た「厄介な人っているんだろうか?」という問いがとても心に残った。

自分から見たら「厄介な人やな」と思う人も、相手の立場から見たら自分が「厄介な人」になっていたりする。絶対的な正義や、絶対的な正しさなんてないはずなのに、私たちはそれを忘れて自分の物差しで人を見てしまう時がある。自分の理解の範疇を超えたら「厄介」なのか? 自分の思い通りにならないと「厄介」なのか?

人は自分から迷惑かけてやろうとか、厄介者になってやろうとは思わない。逆に良かれと思ってやってることが厄介になりがち。厄介と感じるかどうかの問題なのか? とは言え、人は聖人にはなれないし「嫌だ!」とか「迷惑!」と感じることもあるし、そう感じないようにするのは無理がある。そんなの余計に「厄介」だ。そう考えたら「厄介」という言葉が「厄介」なんじゃないか?

そんな話が出て、それがとても心に残った。

ふだんの生活の中で、そんなことを考えていても、それを誰かに話すことや話す場ってあまりない。でも、この場なら、愛とユーモアと優しさを持ち寄って話せて、問題が解決しなくても何か軽くなるような気がする。深刻な話も受け止めてもらえながらも笑い合えるような。それがきっと「オルタナティブ福祉」なんだなぁ。

会の最後にゴミ屋敷インスタレーションに生前のお母様の姿を映す映像が流された。顔立ちが綺麗なお母様。髪は洗ってないのがわかる。手足がかなり浮腫んでいる。いろんな姿のお母様が映し出された。その写真はお母様が回復したら、「アンタこんなんやったんやで!」と見せて笑おうと思って写真を撮っていたらしい。どんなに厄介だと思ったり、どんな姿になっても目を背けずに関わったリーさんの愛の大きさと深さを、そこに観た気がした。

高齢者や適応障害、鬱病が増えていく中でオルタナティブ福祉のような場は貴重。公的な福祉だけでは補えないことも、ゆるやかに優しく支え合えるようなそんなことが少しずつでも広がってゆきますように。

帰り道に田渕徹さんの「平凡人don't cry」が頭の中でずっと響いていた。



↑リー・アンダーツさんのInstagram

オルタナティブ福祉の情報もこちらから。

↑著書はこちらから

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