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等身大のキリスト教

キリスト教について考える

こんばんは、みのくまです。

今月はなかなか質の高い読書ができている気がしていて、とても気分がいいのです。なので、最近読んだ本から考えたことを書いておこうと思い立ちまして、こうして筆をとったわけであります。

最近ずっと考えていることですが、それは「キリスト教」についてです。ぼくは信者ではありませんし、信者の方が身近にいるわけでもありません。ただ、ぼくみたいに古典や歴史を読んでいると、必ずと言っていいほど「キリスト教」が出て来ます。

例えば芥川龍之介です。彼の初期の作品では、明治時代に新思想として日本に入ってきたキリスト教が、インテリ若者たちにはしかのように伝染していった様がよく描かれています。その描き方は太宰治の描くマルクス主義に近いと言っていいでしょうし、2000年代のネットベンチャーの若い社長たちにも近しい。旧世代の人間には理解のできない、外来の何かとして受容されたのでした。

また、ぼくは塩野七生の作品が好きで、ほとんどの彼女の小説は読んでいますが、当然たくさんのキリスト教信者が登場します。その登場人物たちはキリスト教に翻弄され、そして多くが死んでいきます。

思想としてのキリスト教、宗教としてのキリスト教。一つ確実に言えることは、キリスト教は人類史を大きく動かしている、という厳然たる事実です。一体、キリスト教とは何なのか。この問いに答えを出すことは到底不可能ですが、このようにならぼくにも腑に落ちるかな、というところを目指して考えているところです。

今回は、そのぼくの思考の一旦を書き留められればと思っています。ぜひともお付き合いお願いします。

それでは本論に入ります。章ごとにぼくが読んだキリスト教関連書籍を読書メーターを貼り付けます。これらの書籍を使って論を展開していきますので、ぜひご一読頂ければと存じます。

ヴェーバーと大澤真幸に対する違和感の正体

(※この2冊は社会学者大澤真幸の大著「世界史の哲学」シリーズです。めっちゃページ数多いので、あまり読み通した人はいないのでは。ちなみにぼくは既刊は全部読んでます。ほめて。)

まず、「世界史の哲学シリーズ」を刊行中の大澤真幸のキリスト教に関する言説から始めようと思います。この「世界史の哲学シリーズ」ですが、ざっくりテーマを説明しますとこういうことです。

それは「ヴェーバーの衣鉢を継ぐ」です。

どういうことか。マックス・ヴェーバーの最大の功績は「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でしょう。「プロ倫」のテーマは「なぜ西洋キリスト教国家はセカイに先駆けて近代化に成功したか」です。大澤はそのヴェーバーの問題提起を、非キリスト教徒の目線で再度西洋の謎に取り組んだというわけです。

大澤は前述した2冊で、キリスト教の本質についてその成り立ちから検討していきます。ここでその論点を抽出することは、あの大著を前にしてとてもではないができませんし、それが本旨でもありません。

ただ、本書を読んだ人ならば誰もが思うであろう違和感があるのです。大澤が言う通り、確かに産業革命を経て近代化のレールに乗ったのは西洋しかありません。そしてその共通した精神的主柱はキリスト教であることも認めます。ですが、世界中のいろんな国々の人間たちが近代化を目指して生きていたわけではありません。

「せーの」で近代化というゴールに向かって競争していたわけではないのです。各国が各国の文化を営んでおり、そのなかでたまたま近代化した西洋国家群がキリスト教帝国主義という性質を有していたということでしかありません。

もちろん大澤の議論において、宗教・文化の優劣は慎重に排除されております。ですが、そもそも「西洋近代化」が普遍の価値であるという前提に違和感を覚えざるを得ません。大澤は「江戸時代の日本人の感覚より16世紀のフランスの人文学者の感覚の方が今の我々に近い」とまで言います。少なくとも、ぼくにはキリスト教的な倫理観は備わっていません。

大澤は、ヴェーバーの議論では彼自身がキリスト教徒だったために取り損ねた種々のキリスト教的問題を「世界史の哲学シリーズ」で回収しました。ですが、皮肉なことに、大澤がキリスト教を鋭く解析すればするほど、読者であるぼくたちは「こんなにも西洋人と前提が違うんだなぁ」と思い知らされるわけなのです。

キリスト教的な文化は確かにグローバリゼーションという美名のもと、セカイに浸透しているように見えます。ですが、だからこそ浮上する「なんか違う」という違和感に気付かされます。

キリスト教は普遍思想、普遍宗教ではない。これは非キリスト教徒には自明だと思いますが、改めて大澤真幸とその背後にいるヴェーバーから感じ取ることができるのでした。

異教の神々の系譜としてのイエス

(※読みたてほやほやの本。めっちゃ面白かったのでおすすめ。)

キリスト教は普遍宗教ではない、と前章で書きました。それを裏付けるのがまさにこの章で取り上げる「治癒神イエスの誕生」です。

本書を要約すると、イエス(ヤハウェでも可)が神として崇められる歴史的文脈は、決してユダヤ教的一神教の文脈だけではなく、当時のギリシアを筆頭とする多神教的な文脈も多分に流入しているということです。

著者の山形孝夫は、イエスの生涯は3つの特異な出来事で神的に構成されているとします。それは処女懐胎、治癒行為、そして死からの復活です。そして神学的に取り上げられるのは前後2つ、つまり処女懐胎と復活のみです。

イエスの治癒行為は神学的には無視されてきました。なぜならそれは「異教」の影響下にあったからです。しかし、それこそキリスト教が普遍になり得ない証左ではないでしょうか。

前章では説明を省きましたが、「世界史の哲学シリーズ」の中世篇において、大澤は特に力を入れて「キリスト教のグロテスクさ」を記述しています。聖餐式においてパンはイエスの肉を、ぶどう酒はイエスの血を意味します。そこにはカニバリズム的で禁忌的な、ドロドロとした人間の想像力が垣間見えます。

同様に、治癒神としてのイエスは非常に異質です。イエスが盲人の目に唾をつけたら視力が回復したりするのです。カニバリズムも、このような神秘思想も、普遍思想とはかけ離れています。このようなキリスト教が無意識化にまでインストールされた西洋人の文化を、ぼくたちは「江戸時代の日本人の感覚より16世紀のフランスの人文学者の感覚の方が今の我々に近い」と言えるでしょうか。

イエスになりたかった宣教師たち

(※この2冊がぼくにこのnoteを書かせようと思わせました。キリスト教に心酔し、命をかけた信徒たちの心を理解したいのです。)

ぼくはここまでキリスト教の普遍性を否定してきました。端的に要約すれば、「しょせんユーラシア大陸のごく一部の場所で、土俗的な風習の延長線上にイエスもキリスト教も存在していただけでしょう」ということになります。

しかし、だからと言ってキリスト教がダメだとは思っていません。むしろ、普遍性などといった全体性にばかり目を向けるのではなく、もっとイエス個人だったり、信徒個人にフォーカスを当てることの方が、何か得るものもあるはずだと思うのです。

それに、前章でキリスト教のローカル性を強調しましたが、イエス個人は「セカイの救済」まで視野に置いていた節があります。イエスの活動はローカルなものでしたが、イエス個人の思想は地球全体を見ていたといっても良いでしょう。キリスト教について考えるより、イエス個人を、または信徒個人を考えることのほうが「普遍」に近しいというアイロニーが、ここにはあります。

そこでこの章で取り上げた2冊です。戦国時代、宣教師たちが活躍した100年と、その遺した(遺された)かくれキリシタンたち。この2冊は、ぼくの感情をぐいぐい動かした傑作です。

16世紀、はるばる日本に来た宣教師たちは、キリストの教えを広げ、信徒を増やします。一時期は40万人以上キリシタンがいたこともあるようですので、当時の日本列島の人口を考えると、そのすごさに驚きます。しかし豊臣秀吉、徳川家康に迫害され、宣教師たちや熱心な日本の信徒たちは、その生命を散らしていきます。

ぼくはずっと不思議でした。なぜ宣教師たちは日本にまでキリスト教を布教したいと思ったのか。なぜキリスト教の教えを日本人の多くが受容できたのか。そして、なぜキリスト教を命をかけて信仰したいと思ったのか。

この謎は、先程来しつこく書いていた「キリスト教のローカル性」と密接に関わります。普遍性がなければ宣教師たちは海外まで布教に出ないでしょうし、普遍性がなければイエスと何も関係のない日本人に信徒は増えないでしょう。また普遍性がなければ命を賭して信仰を守る気概も生まれないのではないでしょうか。

しかし、現実には宣教師たちは来たし、日本人信徒は増えたし、多くの人間が殉教しました。なぜか。

ぼくには明確な答えがあります。それは、みんな「イエスになりたかった」のです。

イエスの生涯は三十数年です。活動時期としたら1年と少しです。ですが、その期間の彼は、砂漠に打ち捨てられていたハンセン病患者や伝染病患者に奇跡の治癒を施し、布教し、そして全人類の罪を背負って死んでいきます。この圧倒的な利他性。そして神の子であるにも関わらず、あくまで等身大の人間として死んでいく「弱さ」と「強さ」の両義性。

イエスに「感染」した弟子たちもまた見事に殉教していきます。そうですね、「イエスになりたい」とはさすがに言えなかった信徒たちも「使徒になりたい」くらいならなんとか言えたのかもしれません。

この等身大のイエスのカリスマ性こそが、キリスト教の本質ではないでしょうか。キリスト教の悪癖として、「内面に介入する」ということがあります。「本当の信仰」や「どれくらい神を信じているか」など、形式だけでなく人の内面までも介入してくるのです。(※そういう意味では、イスラームやかくれキリシタンは「形式」が大事です。唱えている祝詞の意味がわからなくても関係ありません。祈るという「形式」こそが大事なのです。)

これを換言すると、「どれだけイエスに近いか」ということではないでしょうか。イエスに近付くには「形式」では判断できません。内面と、その結果の行動(=殉教)こそが判断基準になるのです。


ぼくは、みんなイエス(もしくはその取り巻き)になりたかったんだなぁ、と思った瞬間に腑に落ちました。確かに素晴らしい人の佇まいから「感染」することこそ、成長意欲や公共性が育つ気がします。

こうなると俄然イエスその人に興味が湧いて来ますし、当然他宗教の偉人たちにも触手が動きます。こうやって読書は、バトンのようにリレーされていくので面白いですよね。

さてさて、今回はだいぶ走り書きになりました。これからお弁当の準備もしなくてはなりませんので、一旦このまま投稿しちゃいます。あとでちゃんと校正しますのでご容赦を。

ここまで読んでくださった方、感謝の念が絶えません。今後も頑張って投稿しますので、どうかまたよろしくお願いします。

ではまた次回。

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